どうでもいいと思えるとうまくいく 執着を手放すと恐怖が消える 執着を手放すには極限まで執着しきること

かなり前俺は、
「どっちでも良いとばかりこたえる受け身の人間は糞」
「どっちでもいいと言うやつはどうでもいいと思っている」
とぶちぎれていた。

しかし、今までの人生を振り返ると明らかに、何事においても
「もうどうでもいい」
と思えたときにこそうまくいってる。
一番パフォーマンスを発揮できる。

散々執着したり怖がったり力んだ挙げ句、もうどうでもいいわと開き直って吹っ切れたときに、ことがうまく運ぶ。

これは引き寄せとかでよく言う、今までの過去の自分や執着を手放して、一旦心の器に真空を作ることで望むものが勝手に入ってくるようにするってこととも通じると思う。

どうでもいいと思えるとうまくいく

選択肢に優劣がなくなり脱力できる

それに加えて俺が思うのは、何かをやるときに自分が定義するAとB(または成功と失敗)があったとして、
「A(成功)じゃないと嫌だ、Aにしなければ」
と力んで強迫的になって、Bになることを恐怖するんだが、どうでもいいと思えるとAとBの優劣は完全になくなる。

その上でフラットにAを選択できるようになるんだろうなと。
どっちかしかできないじゃなく、どっちもできるうえでどっちかを選べるようになる。

前者でも成功することはできると思うけど、経験上相当苦しかったり怖かったりするしパフォーマンスも出ない。
それに恐怖や強迫観念に突き動かされてる間は幸福感はない。

どうでもいいは空観で、そっからどっちか選ぶのは仮観、必要に応じて空観から仮観まで自由に行き来できるのが中観。

とにかくリラックスしろ、脱力しろ、そしたら脳波がα波やθ波になって潜在意識働いてパフォーマンスが出るとよく言われる。
そのために体を緩めたり呼吸法したりするけど、一番リラックスできるのは経験上、どうでもいいの精神状態になったときだな。

俺の場合、何事においても、どうでもいいの精神状態になるまで紆余曲折あることが多いから困る。
色々力んだり怖がったり失敗した挙げ句にやっとどうでもいいの状態になれる 最初からなれたらいいなと思うんだが。

執着を手放すには極限まで執着しきること

人は生きている限りあらゆる『欲』がありそれが苦しみの根源だが、欲がなくなったら死んでしまうので必要なもの。

欲とは『満たされていない状態』『不足している状態』。
執着とは、欲が満たされていない状態が慢性化した状態だと個人的には思っている。

欲を抱いてすぐに叶えば苦しみは少ないが、実際なかなか叶わないからつらく、執着になり、どんどんそれに囚われていく。
だから、願望のほとんどは執着と言いかえられるんじゃないだろうか。

で、どうすればその執着の苦しみから開放されるかだが、結局は『手放す』しかない。
手放すしかないのだが、すぐに手放せたら誰も苦労はしない。

俺の経験から言うと、執着を手放す方法の一つに『極限まで執着し切る』というのがある。

処女への執着

俺は人よりも欲が多い、つまり執着が多い人間だ。
中でも大きな執着はいくつかあるが、ここ最近手放せたのは『処女への執着』。

俺は14歳から10年間処女厨を続け、今年の1~3月が執着と苦しみのピークだった。

「処女とやったことあるよ」
と言う男の話を聞いては劣等感と嫉妬で胸の周りがどす黒い霧に包まれたような苦しみに苛まれたりしていた。

配信で処女について相談しまくり、やっぱりピンポイントで処女と出会うのなんか無理なんかなとか落ち込んだりしつつも、出会い系、街コン、婚活、ナンパなど、処女と出会うために行動を起こしまくった。

処女をリサーチすべきだとも思い、処女と知り合いまくったりもした。

その中の、彼氏持ちの処女に、彼氏との処女喪失セックスの話を聞かされ(自分からきいたら随時報告してくれるようになった)、
「やっとチンコ入って処女卒業したよ!」
と言われ、もう胸が張り裂けそうだった。

出会いツールによる出会いもすべてうまくいかない状態で、その処女卒業報告を聞かされた3月暮れ、あまりのショックで、本当に何かが弾けた。

「もう処女とかどうでもいいや」
と心から思えたのである。

限界まで執着しまくり、行動しまくり、苦しみぬいた挙げ句、ふっと肩の荷が降りたように、『諦めがついた』。
その感覚は今でも覚えていて、なんとも爽快なものだった。

強がりではなく、
「本当に処女とか非処女とかどうでもいいや、付き合えさえすれば良いや」
と思えたのである。

それで、執着から開放され楽になっていた矢先、実際に処女の彼女と付き合えた。
もういいやと諦めたのに、叶った。

この体験で俺は、『執着(願望)は、手放して少しした後に掴める』と確信した。

『何かを手に入れる(掴む)には、今持っている(握りしめている)ものを手放さないといけない』
と言うが、多分このことだと思う。

執着は手放すのも満たすのも結果的には同じこと

願望を実現するには、『願望を実現した状態をリアルにイメージする』ということを繰り返したほうが良いと言う。

で思ったんだが、『処女とセックスする』という願望があり、『処女とセックスした状態』をリアルにイメージするとなると、つまり『処女に執着していない状態』が浮かび上がってくる。
欲は満たすと手放せるので、『本当に処女とセックスした人は、処女に執着しなくなっている』からだ。

俺は、
『処女とセックスせずに』『処女への執着を手放した』
が、それはある意味、
『処女とセックスして』『処女への執着を手放した』状態という、願望が叶った状態を超リアルに再現していたのかもしれない。

わかりづらくなったがつまり、
『処女と実際にセックスしてもしなくても、手放してさえしまえば同じこと」
ということ。

お金で例えると、本当にお金に満たされたお金持ちというのは、お金に執着していない。
そして、お金は全く持っていないが、お金への執着を完全になくせた坊さんなども、お金に執着していない。

実際にお金持ちの状態を経験したかどうかという点では異なるが、どちらも『お金に執着していない』という点では同じだ。

『欲』ならなんでもそうだが、『欲がある状態』『執着している状態』がつらいのであって、手放せてさえしまえば、実際に叶えようが、叶えてなかろうが、平等に楽なんだと思う。
実際に叶えるかどうかは本質ではなく、『完全に手放せるかどうか』が本質なんだろう。

叶えて手放すか、叶えず手放すか

実際に叶えることで欲(執着)を手放すのが、西洋方式(願望実現方式)。
実際に叶えず、欲(執着)を手放すだけなのが、東洋方式(悟り、解脱方式)というらしい。

前者はある程度つらいが、俺は前者を選んでいきたい。
後者をやってもつまらない。
まぁどちらもバランスだが。

それに、前者のプロセスの中でも結局、俺の処女への執着のように、一度強烈に手放す時が来る場合もある。
手に入れるために死に物狂いでイメージや行動しまくった後、手放せる時が来る。

手放した瞬間というのは後者的だが、その後少しのタイムラグがあって、『実際に実現できる』ので、結局前者ということになる。

ただ間違ってはいけないのは、
『真のお金持ちはお金に執着していないが、最初からお金に執着していなかったわけではない』
ということ。
俺が処女に執着したように『死ぬほどお金に執着しきった時期』があり、結果満たされ、執着しなくてよくなった、という流れのはず。

だからやはり、同じ『執着していない状態』でも、『それに至る(執着を手放すまでの)過程』が重要。
最初からお金に執着していない状態では、実際にお金持ちにはなれないと思う。

執着は手放すには極限まで執着しきる 限界を知る

結局何が言いたいかと言うと、
『手放すには、やりきる必要がある』
ということ。

特に何もやっていないのにジワジワと執着だけがあり、その状態で、苦しいから手放そうとしても、『手放しきれない』。

「もう無理だ」
というところまであがいてみた時、自分の限界を知れるのか、本当にフラットな気持ちで手放せる。

手放して少しした後に、実際に手に入ると書いたが、本当は、手に入る必要もない。

手放した時というのは、
「本当にいらない」
と思えている。

「できれば手に入ったらいいな」
とさえも思わない。

本当に執着を手放せた瞬間の感覚というのは、そんな感じだった。

でも、そんな状態に至ったときに限って、本当に手に入ってしまう。
強い願望が叶う時というのはそういった不思議な状態なんだなと思った。

やりきることが重要

まぁこの話は、本当に強い願望・欲望・執着を、実際に現実世界で実現したい人のケーススタディだと思ってください。
もっとスマートに叶えられる人はいるはず。

だがやっぱり人には、
「これだけは譲れない」
「これだけは何が何でも叶えたい」
という『執念』のようなものがないとつまらない、人生面白くないと俺は思う。
それは多分、『因縁』というか『業』のようなもので、人それぞれ違う。

それはめちゃくちゃ苦しいが、最近それが楽しくも思えてきた。
俺は人にはSっぽいと言われるが、そういう点に関してはドMかもしれない。

だから俺は、何かに執着しまくっている人が基本的には好きだ。

そんな感じで俺は今、また別のなにかに執着してるわけだが、これも、全力でやりきり、限界を知るところまでまず行ってみようと思う。

そこで手放せるか、手放した後手に入るか、手放しても手に入らないかはわからないが、どちらにせよ
『やりきる』
ことが重要。

欲張りな人間は決断ができない 決断という行為は得るより捨てる側面のほうが強い

昨日深夜にまどろんでいる時に、そんなことを思った。

人生を変えるために重要なのが『決断』なわけだが、それがなかなかうまくいかないという人は多い。
『優柔不断』というやつだ。

なぜそういう状態に陥ってしまうかというと、結局のところは『欲張り』だから、ということに尽きる。

決断とは捨てること

決断という言葉は、『得る』よりも『捨てる』という側面の方が強い。

『一つを得るために、それ以外を全て捨てる』
という行為が決断だ。

だから、『捨てることができない』『何もかもが欲しい』そんな欲張りな人間は、うまく決断をすることができない。
そして優柔不断の苦しみに陥る。

優柔不断とは、まさに欲張りな状態と言える。

何も捨てれず、全てが欲しくて、決断できず、優柔不断に陥る。
ちなみに、すべてが欲しいと欲張った結果、もうどれもいらないや、となってしまったりすることも多い。

断ち切ると決める

決断というのは『決めて断つ』と書くが、俺は『断ち切ると決める』という方がしっくりくる。

小さなことから大きなことまで人生や生活は決断の連続だ。

例えばお昼に何を食べるかというのも決断だ。

そこで『カレーライスを食べる』と決断した時、動的には『カレーライスを得た』という形だが、静的に見てみると
『カレーライス以外を全て捨てた』
ということになってくる。

カレーライス一つを選ぶために、カレーライス以外の世界中の料理を食べる未来を捨てたということになる。

そういった小さな決断一つ見てみても、決断というのは得ることより捨てる側面の方が強い。

さすがに世界中の料理は最初から選択肢として候補に入ってるわけはなく、あらかじめ決断する前にはいくつかに搾られている。
カレーライス、うどん、パスタ、牛丼、など、『食べ物』という枠組みの中で、『近場で食べられるもの』で絞られているはず。

優柔不断になって迷ってしまう人は、その選択肢の中でも、全てが欲しいのだ。

『一つを選ぶためにそれ以外を捨てる』
ということができない欲張りなのだ。

そこで『決断とは捨てること』ということを踏まえると、
『どれなら捨てられるか』
という風に思考でき、うまく決断できるような気がする。

決断とは欲が尖ること

「『決断』は『欲張り』の対義語かもしれない」
とも思ったが、何というか決断は、欲はあるのだがそれが『尖っている』という感じがある。

『カレーも、うどんも、パスタも食べたい』
と欲が広がっている状態は欲張りだが、決断とは、
『カレーひとつのために全てを捨てる』
というふうに、欲を一つに絞る行為だ。

欲をカレーに『一点集中』させる、カレーを『最優先事項』にする、そういった意味で、決断は『無欲』や『悟り』ではないはず。
『執着』とか『執心』だろうか。

『欲張り』は「あれもこれも」という状態だが、『執着』は「これしかない!」という状態だ。

決断の際には後者が重要になる。

最初から『これしかない!』と思える人にとっては決断は容易だ。

『これしかない!と決めて、他を断つ』
という意味で、そういう人にとって決断はまさに
『決めて断つ』
だと思う。

だが、上に書いたような、欲張りで、最初から一つを選びにくい場合は、
『ほかを断つと決めてから、残った一つを決める』
というふうに
『断ち切ると決める』
という消去法的な順番でやったほうがうまくいきやすいはず。

誰しもその時々で両方あると思うが、俺はどちらかというと後者で決めることが多い。

俺みたいな人間は、
決断とは、捨てること
決断とは、断ち切ると決めること
と捉えたほうがうまくいきやすいようだ。

手放さないと掴めない

この話は、昼メシをなににするかという小さな決断から、進学先をどこにするか、恋人と結婚するかどうか、とかの人生単位の大きな決断まですべてに言えること。

大きな決断であればあるほど、得るものも大きいが捨てるものも大きい。
片方を得れば、もう片方を選んだ未来は得られなくなる。

人間、何かを得たいのは当然だが、捨てるのが怖いのも当然。
だが、何かを得るには必ず何かを捨てなければならない。

『手放さないと掴めない』
と言うし、どちらかというと、掴むことより手放すことのほうが重要な気がする。

したがって、
『どちらがほしいか』
より、
『どちらなら捨てられるか』
と考えたほうがうまくいくことが多いはずなので、参考にしてみてください。

期待と希望の違い

期待という言葉と、希望という言葉は似ているが、意味は大きく違うということに最近気づいた。

期待とは、求めるものが与えられるのを、受動的に待っている状態だ。
受動的ということは受け身ということであり、受け身ということは、相手次第ということだ。

相手次第ということは、相手の行動や結果に依存しているということだ。

だから、相手が期待どおりの行動をしなかったり、期待通りの結果を出さないと、文字通り”期待はずれ”な気持ちになったり、がっかりしたりすることになる。
相手の行動や結果に気持ちを左右されているということだ。

それに対して”希望”は、求めているものが与えられることを、能動的に望んでいる状態だ。
能動的ということは自分の意思で動くということであり、自分の意思で動くということは、自分次第ということだ。

自分次第ということは、自分で行動や結果をコントロールできるということだ。

希望は、もしその物事が思い通りにならなかったとしても、がっかりしたりすることがない。
がっかりするかどうかも自分次第でコントロールできるからだ。

そして、自分次第なら、諦めずもう一度希望を持つかどうかも、自分でコントロールできる。

期待の根本は相手への依存なので、持っただけでは、不安がつきまとう。
相手が期待通りに動いてくれた場合に、初めて、安心することができる。

希望の根本は自分への信頼なので、持った時点で、決心や覚悟のようなものが生まれる。
決心や覚悟ができると、結果がどうなろうと、簡単には左右されなくなる。

つまり、”期待”は自分以外に持つもので、”希望”は自分に持つもの、ということです。
結局は相手に依存する受け身の状態より、自分次第という能動的な状態のほうが良いということです。

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