揉め事と絶縁と憎しみについて 自分が好きなものでも嫌いな人がそれを好きだと嫌いになる 被害妄想の解決法 等

目次

2014年12月19日 2014年のまとめ 憎しみについて

そろそろ2014年も終わるので、今年のまとめとして書きたいと思います。

近頃、本当に心の底から楽しいと思えることが少なくなった。

配信をやっても、歌い手志望だなんだとほざくバカガキやら、アナログで版権キャラの模写しかやっていないくせに、画力がなんだとほざくような、目も当てられない低レベルなオタクやガキしかこない。
そして、Twitterでハッシュタグつけて絵を晒して馴れ合っているような連中も来て鬱陶しい。

かといって、話が合うような奴が来たとしてもそれはそれで問題だ。
共感を繰り返すうちに情が移り、ただでさえ内輪で馴れ合いな放送がさらに閉鎖的になる。
そして、なんだかんだで絶縁したりモメたりする。

俺は配信をやっても、エンターテインメントとして人を楽しませることはできない。
大衆に受けるようなセンスもないし、欺瞞に満ちたことが何よりも嫌いなので無理だ。

リアルで話しても誰も聞いてくれないような、ルサンチマンまみれの愚痴や、劣等感と嫉妬と偏見に満ちた『憎しみの言霊』を、不特定多数が見ている場所で吐き出し、よくわからないが、何かを得ようとしているだけだ。

ただ、境界性人格障害の暴力野郎のように、似た境遇の人間を探し、共感を求め、考えを押し付けるようなことだけはしないように努めてきたつもりだ。
アルティーにはそれをしたせいでひどいことになった。

配信をやめて、そういった低レベルな人間が一切眼に入らないように工夫し、作品作りなどに集中するか、俺の家の隣に住む、妻を亡くしたおじさんのように、一切人と関わらずに生きる方法を選んだほうが、精神衛生上いいのだろう。
だが、俺は今までの経験から、やっぱり人との関わりを完全に断ち切ることはできない。
共感しあう喜びを忘れられないので。

配信をやるとしても、ツイキャスのような低レベルなバカガキしかいないようなサイトはやめ、FC2のような、うまい人ばかりのところに行けばいいのかもしれないが、俺の低レベルな場所に甘んじようとする怠惰もあって、そういう場所には行けないでいる。

人との関わりはできるだけ避け、映画や音楽鑑賞や読書やゲームなどの、既存の作品を享受して楽しめばいいとも思ったが、この作品面白いなと思って、少しでもネットで検索をすると、バカそうなガキとかが話題にして盛り上がっていて、楽しそうで心底辟易し、その作品への興味がなくなることが多い。

憎い人間が好んでいることを嫌う

このブログやpixivを見てもらえればわかるように、俺はとにかく人とモメまくってきた。
モメた人間のことは、本当に殺したいほど憎い。

憎しみによる苦しみというのは、その殺人願望が、法律などのせいでどうしても叶えられないことによる、ストレスから来るものだと思う。
そして、俺はなんとかそのストレスを発散するために、絵を描いたり曲を作ったり文章を書いたりする。

他にも俺は、
「その憎い人間が好んでいることを、俺は絶対にやらないでおこう」
と決意し、生きる道をどんどん狭めてしまう。

例えば、最近モメた生涯ボケクソ安確ポンチン低俗LINEスタンプ野郎のようなオタクを見ていると、俺はもうアニメなんざ見ないでおこうと思ったりする。
そして実際見ていない。

「あんな人間と同じ行動を取りたくない」
と思ってしまう。

ルサンチマンが強くなってきた

そういうことについて、いろいろ本も読んでみたが、結局未だに昔と変わらずにいる。
2,3年前は、憎しみというより怒りが強く、ブチ切れたり悪口を言っても、どこか、からっとしていた気が自分でもする。

俺も20代になり、そろそろルサンチマンが洒落にならないくらい強くなってきた。

そんなことを繰り返すうちに、本当に世界は天災でもなんでも起こって、さっさと滅んでほしいと思うようになった。

小5の時から昼夜逆転し、登校時間が近づくと、大地震が起こってくれ、と2chの地震板を見ながら祈っていたので、今に始まったことではない。

ただ、自分自身が死にたいとはまったく思わない。
どちらかというと、自殺するくらいなら、モメた奴らを全員ぶっ○したほうがましだと考える。

そんな思いが募って、今年の5月にはTwitterをやめ配信もやめ、作品作りもやめ、いつ自分が死んでもいいように、断捨離と称しモノを処分しまくったりしていた。

結局7月には復活し、かれこれ4ヶ月、人とモメたり腹立つことに苛まれながらいろいろやってきたが、また精神が限界に来ている。
今度はもう作品を作らないとかは言い出すつもりもないが、なにか平穏に暮らせる場所を探したい。

俺はただ、低レベルだろうがなんだろうが、作品を作り、何かしらの経緯で、このブログや、pixivや、Youtubeを見つけてくれた人に、コメントも何もいらないから、なにか感じてもらい、できれば共感してもらればいいと思っている。

近頃のネットは本当に、Twitterなどでガキの声がやたら大きく、ボ○ロや淫○などのブームも終わる気配がなく、検索すればすぐにまとめブログやNa○erまとめなどが出てくるし、拝金主義が蔓延して本当につまらない。

ネットを嫌ってみたところで、リアルが充実しているわけでもない。
なにより、絵や音楽などの表現活動をネットでするしかない俺は、どうしてもそういうのが眼に入ってきてしまうので、日々ストレスの連続だ。

まぁこんなことを言ってもただの懐古主義だと思われるだけだ。

「つまらんなら自分が何か新しいコンテンツを生み出せよ」
という意見も飛び出しますが。

ただ、この記事を見ている顔も名前も知らん誰かが共感してくれることを想像して、記事を書くのみです。

2015年1月1日 『時間がもったいない』という価値観

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あけましておめでとうございます。

音楽を聴きながら絵を描いて年を越していました。
深夜に寝て昼に起きました。

さて、
「2年前くらいから深夜アニメをまったく見なくなった」
と、以前の記事に書いたが、大体そのあたりから、俺の行動の基準として、
「時間がもったいない」
という価値観が強くなっていった。

例えば、リアルの知り合いとつるんで、くだらない話をしたり、麻雀を打ったり、カラオケに行ったり、気を使うのは、とんでもなく
「時間がもったいない」。

意味もなく町に出てぶらぶらするのも
「時間がもったいない」。

ゲームをするのも
「時間がもったいない」。

じゃあ俺にとって『時間がもったいなくない』行動とは何かと考えると、結局は、お絵描き、音楽制作、ブログの更新、空想、音楽鑑賞、映画鑑賞、読書、睡眠、などだろうか。

「睡眠こそ時間がもったいないんじゃないか」
という意見が飛び出すが、俺にとってはそんなことはない。

あと、配信に関しては正直言って、時間がもったいないと思うことのほうが多い。
つまりは、自分にとって楽しくないことは時間がもったいない。

『嫌いな奴や憎い奴がしている事と同じ事をしたくない』という価値観

この、
「時間がもったいない」
という価値観以外にも、
「嫌いな奴や憎い奴がしている事と同じ事をしたくない」
という価値観が、俺の行動、果ては人生までをも、どんどん狭めている。

例えば、俺が深夜アニメを見なくなったのは、アニメを見るという行動をとることで、自分が、Twitterでアニメ実況やって喚き散らしてるような攻撃的なオタクや、コミケにいるような池沼一歩手前のオタクや、生涯ボケクソ安確ポンチン低俗LINEスタンプ野郎などと、同類になってしまったような気になってしまい、ものすごく嫌だからというのが大きい。

ゲームに熱中したりすると、某セックスレス自慢の人などと同類になってしまったような気になる。

対戦系だと、
「どうせ上手い奴には勝てない」
と思い始めて、面白みをまったく感じない。

TwitterなどのSNSも、昔は暴言を吐きだすために使っていたが、ツイッタラーと呼ばれる連中と同類になったような気になって、虫唾が走るので、今は告知のためだけに使っている。

余談だが、特にゲームやアニメは、その作品の世界観が俺の心に影響を与えるし、その作品で心を満たそうとしてしまう自分もいて、なおさら嫌になる。
中二病すぎるだろという意見が飛び出しますが、ルサンチマンが肥大化しすぎた結果です。

今年もよろしくお願いします。

2015年6月7日 言いたいことを我慢している

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配信もお絵描きも楽曲製作もやめ、ダイナマイトチャットも閉鎖した。
別名義でTwitterはやってるものの、人が気分を害するような発言をしないように徹底している。

最近、
「そもそも暴言を吐きたいと思わなくなった」
といったが、あれは間違いだった。
日々暮らしているとやはり怒りが沸いてくる。

こうやってブログの記事に書くことで発散されると思っていた。
だが、よく考えると、俺は記事を書くときはかなり、言葉を選んでいる。

はっきり言ってもっと書きたいことはあるのだが、なにしろ検索エンジンで結構ヒットするので、『やっかいな人間』に絡んでこられる可能性があり、書かないでいる。

だからこのブログの記事に書かれている俺の気持ちというのは、最初に心にわきあがった純粋な怒りや憎しみを、かなりオブラートに包んでいるものなので、俺としても発散し足りない部分がある。

配信で罵詈雑言を大絶叫して暴れたり、昔のようにTwitterで暴言を一心不乱にタイピングしているあの精神状態とはまったく違う。
憎い奴に馬乗りになって何度も殴りつけるような、そんなイメージの、怒りと憎しみの発散方法を、ここ最近は一切とっていない。

そういう発散の仕方で、最初は気分がすっきりして思わず、
「最高や!!」
と大絶叫したくなっても、それを聞かされる周りの人間はひどく悪い影響を受ける。

最近は、人に悪い影響を与えたくないという気持ちのほうが大きくなっている。

愛に基づく行動は愛を強化し、憎しみに基づく行動は憎しみを強化する

加藤諦三という人の、
「愛に基づく行動は愛を強化し、憎しみに基づく行動は憎しみを強化します。」
という言葉に衝撃を受けた。

現に今までの経験からしても、キチガイ絵を描いたり、楽曲のガヤで○○死ねと連呼したり、配信で人に愚痴を聞かせても、気持ちいいのは最初だけだった。
あとで『やっかいな人間』がさらにやってきたりして、また新たな憎しみを生んだり、既存の憎しみがさらに強くなったりして際限がない。

この悪口ブログの記事もそれにあてはまる。
だが、せめて、見たい人だけ見に来るこのブログでくらい発散しないと耐えられない。

しかし、
「行動はその背後にある動機を強化する」
という法則があるので、発散できるどころか、書けば書くほど憎悪は強くなるかもしれない。

最近は、できるだけ憎しみにフォーカスは合わせず、無理にでも好きなことをやって気分転換するか、黙って寝ることにしています。
最終的には、このブログでも、もっと建設的な記事を書けたらいいなとは思います。

2015年6月10日 人とモメて絶縁するとその人との楽しかった思い出がすべて憎しみに裏返る

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数日前、俺がTwitterを始めた頃くらいからの知り合いに拒絶され、絶縁した。
それで今、その人に対する恨み言が湧き上がりそうなところだが、同じことを繰り返したくないし、ひどい言葉が出てきそうなので我慢している。

これはモメて絶縁した人間すべてに言えることだが、一度モメて絶縁までいき、憎しみが生まれてしまうと、その人との楽しい思い出がすべて、オセロのように憎しみに裏返ってしまう。
そして、端っこや角を取られた時のように、ほぼ元に戻せない。

最初はお互いに、良い意味で相手に興味津々だから、Twitterやpixivで相互フォローになり、楽しい気持ちを共有したりできているのに、いずれ受け入れられない部分が出てきたりして、衝突が起こり、揉め事になり、絶縁し、憎しみが生まれる。

そうなると、楽しい思い出はすべて、憎しみを薄めるどころか、可愛さ余って憎さ百倍で、憎しみを強めるのに最適な材料になってしまう。

「なんでこんな憎い奴と、同じ時間を過ごしてしまったんだ」
という、以前書いた、
『時間がもったいない』
という考え方が、裏返り具合を増幅させている気もする。

その段階まで行くと、その一生ではその人とまず元の関係には戻れない。

仲直りもしたことはあるが、その後もう一度絶縁するということばかりだった。

拒絶という行動をきっかけに、好意が憎しみに裏返る

今更だが、このブログで言うところの憎しみとは大体、
「いきなり通り魔に刺されて怪我を負ったからそいつが憎い」
とか、そういうのではなく、
「今まで仲のよかった人とモメて絶縁したから憎い」
という類のものを指す。

物理的な害というより精神的な害が主だ。

今回絶縁したとある人に対して、関係が続いていた時から気に入らない部分はあったが、関係が切れていない時はまだ、楽しい思い出は憎しみに裏返っていなかった。
だが、拒絶という、俺を否定する行動をとった時点で、俺の中で、楽しい思い出がすべて憎しみに裏返ってしまったのを感じた。

それがもはや、ころしたいのにころせなくて苦痛だとか、以前言っていたそういうのを通り越して、悲しいとさえ思い始めた。

絶縁はすべて、何かしらの形で拒絶という行動を伴うということに気づいた。
あなたとはこれ以上付き合えませんと言われた時点で、俺にとっては、ある意味誹謗中傷に近いくらいのことなので、相手を憎むのに十分な理由になる。

ただ、絶縁しなくとも、水面下でずっと不満を持たれ続けている状態というのも、言葉にしづらい『妙な空気』のようなものをお互いが感じることになる。

特に、某セックスレス自慢の人とはその期間が長かった。
そこから関係改善をしようとしても、俺とリアルの知り合いのメガヤスが無理に共感をし合おうとするのと同じような、とってつけたような、親しいふりの芝居になってしまい、薄ら寒いだけだ。

その状態を続けた後、図ったように、絶縁に導くのに丁度いい出来事が起こってしまう。

そして上述のように、絶縁という節目をもって、楽しい思い出は憎しみに裏返る。
あまりにも人と絶縁しすぎて、この流れがルーチン化してることに気づき、最近は悲しいとさえ思い始めている。

悪い考えのまま凝り固まった

殺したいのに殺せなくてつらいという感情が、悲しいという感情に変わったのが、成長なのかなんなのかはわからない。
人とうまくやっていけない自分を、努力して改善できない時点で、おそらく単なる思考停止なんだと思う。

最近、防音室を撤去したり、色々身辺整理をしたり、家族との関係も若干変わったりしたので、なんとなく今が人生の小さな節目という感じがしている。
同時に、縁が切れるべき人間とはすべて切れた感がある。

今後どうなるかはわからんが、自分自身、成長した部分は確かにあるが、同時に、取り返しのつかないくらい、悪い考え方のまま凝り固まってしまった部分もあるなと思った。

今回絶縁したその人への恨み言を書くエネルギーを、絶縁や憎しみに関する、現時点での自分の思いを書くことに、無理やり転化させた感がある。

さっき、拒絶されるということは俺にとっては誹謗中傷並みの行動だと書いたが、俺が人と絶縁するときは、大体こちらから相手を拒絶することが多かった気がする。
そして勝手に楽しかった思い出を憎しみに裏返らせ、憎悪を募らせているので、相手がそれをみて、
「なぜここまで憎まれているんだ」
とショックを受けることもあったりする。

それも俺のろくでもない部分だとは思うんだが治せない。

まぁもう考えても空しいんで忘れようと思います。

忘れるというか、以前記事に書いた、
「自分から離れていった人間はすべて、離れた先で勝手に死んでいる」
という可能性を一方的に妄信し、自分の精神衛生を保つための行動をとると思います。

2015年6月25日 憎しみの原因は戦いを避ける恐怖心 場を乱すことが怖いから本音が言えない怒れない

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昨日、加藤諦三氏の『モラル・ハラスメントの心理構造』という本を読み終えた。
去年Kindleを買ったものの、あまり読書しておらず、特にこういった生き方本のようなものを読むのは、かなり久しぶり。

加藤諦三という人に関しては、名前自体は中学時代から知ってて、人間関係に悩んでる人はとりあえず読んで損はないということも知っていた。
最近になって、Twitterの加藤諦三・〆の言葉botを見たり、Youtubeにあがっているテレフォン人生相談の動画を見たりして、本を買うにいたった。

この本に俺の悩みの原因がほぼ書かれてあって、久しぶりに、本を読み終えた後の感動があった。

この本には、モラル・ハラスメントという、美徳を振りかざして人をコントロールする人間に関して書いてある。

その部分もかなり勉強になったが、俺は後半の、
『憎しみの感情が消えない人は、真っ向から戦っていない』
『戦えないのは、戦わないことを美徳として育てられたから』
『戦えないのは、心の奥に恐怖があるから』
という旨の文章に衝撃を受けた。

現に俺が未だにリアルの知り合いのメガネ安確や、ネットでモメてきた数々の人間への憎しみが消えないのは、正面切って本人と戦ってこなかったというのが大きな原因のひとつだとわかった。

リアルの知り合いには、怒鳴り合いになろうが空気が悪くなろうが、もっと言いたいことを言わないといけなかった。
言えなかったせいで、未だに憎しみが消えない。

俺が正面切って本人に怒鳴ったりできず、3,4年前のように、Twitter上でメガ安にブチ切れて暴言ツイートをしていたのも、すべて恐怖心が原因だった。
別に殴り合いになることや言い合いになることはそこまで怖くないが、空気が悪くなって気まずくなったり、場を乱す奴というレッテルを貼られるのが何よりも怖かった。

面と向かって、思っていることを全部ぶつけていれば、もっとからっとした気持ちでいられたと思う。

だから、歯に衣着せぬ物言いをしてもいやらしさが残らない人を見ると羨ましく思う。

ネットの人間関係に重点を置いて躍起になっていた

ネットに関しては、結局のところは文章でのやりとりで、人と人との通じ合いという感じが薄い。
顔も見えない、住所も本名もわからないネットの人間関係というのは、生身の人間とのコミュニケーションとは程遠いものだと感じる。

ネットでモメた連中への憎しみが消えない原因は、正面から戦わなかったということ以外にも色々ある。
そもそも、ネットの人間関係に変に重点を置き、一人で躍起になっていたのが根本的に間違っていたと思う。

結局ネットの人間関係で、悪い感情を使うのは無駄以外のなにものでもない。
ネットの人間関係を何年続けようが、リアルでの人間関係に活かせることは少ない。

Twitterで暴言を吐くのも何の意味もない。

周りを不快な気分にさせたり、憎しみがさらに倍増したり、そのツイートに腹を立てた人間に絡まれ、今度はそいつに対する憎悪が生まれたりするだけである。

こうやってブログに記事を書くのは、読書の感想という意味はある。
だが実際は、リアルで話せる相手がいないので、ここで考えをまとめて吐き出したいというのが大きい。

キチガイ絵や楽曲の制作には不健康な心理状態が必要だった

ここ最近、Twitterで呟かず(別名義では当たり障りのないことだけを徹底して呟いているが)、配信をやめ、楽曲やキチガイ絵を製作しなくなったのも、当然の流れだと思う。

リアルで知り合いさえもいない脱落者だから、不健康な精神を持ってネットで人と交わろうとしてきた。
そして離れていった人間やモメた人間に猛烈な憎悪を抱き、それを糧にキチガイ絵を描いたり楽曲を作ったりするということをやってきた。

それを続けるにはある意味、自分をいつまでも、憎しみや怒りに塗れた、心理的に不健康な状態に保たないといけなかった。

はっきり言ってそんな状態を保つのは尋常じゃないくらい疲れる。
俺はそろそろ少しずつでもいいから、心理的に健康な状態になりたいんだと思う。

一連のネットでの活動をやめたのもすべてその欲求から来るものだった。

だがそうしようと思っても、今俺はバイト以外何のコミュニティにも属しておらず、知り合いもゼロ。
5年間ネット漬けだったツケは大きい。

この本を読んでいろんなことはわかったものの、いざリアルの人間関係を構築しようとしても、根本的に劣等感や恐怖心が払拭されていない俺は、とにかく疲れることだけは間違いない。

ただ以前のように、リアルで腹が立ったからといってネットで暴れるという、同じ過ちを繰り返すつもりはさすがにない。

ネットでもリアルでも人間関係を構築できないとなると、一人きりで何かを作るか、映画やら読書などにひたすら楽しみを見出すしかない。

見ての通り、俺の考え方や性格は凝り固まっており、これがさらに年をとると、いよいよ治すのに強烈な苦痛が伴い始めると思う。

「就職できない」
「そもそも大学や専門に行けない(金銭的な理由よりも精神的な理由で)」
「天災などが起こって、この世の無意味さや生きることの無意味さを痛感させてほしい、さっさと地球が滅亡すればいい」
など、常軌を逸した不健康な考えは奥深くまで根ざしてしまっている。

最近の唯一の進歩は、何度も言うようだが、ネットに重点を置いたり躍起になることが馬鹿らしいとわかったことくらいだ。

加藤氏の本は読みやすくて面白いので、次は『自分を嫌うな』という著書を読んでみようかと。
というかせっかくKindleもあるし、加藤氏に限らずまたいろいろと本を読んでいこうと思う。

2016年5月12日 憎しみが悲しみに変化 悲しみは諦め 憎むより悲しむほうが楽

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2016年4月で、このブログを開設してから2年経つ。

その間、ネットやリアルでモメた奴らへの憎しみに苛まれ、どうにかして吐き出したくて記事を書き捲くってきた。

色々と考えるうちに、近頃は、憎いという感情が、悲しいという感情に変わってきた。

なぜ、最初は仲がよかったのに、こんなことになってしまったのか。
なんであんなクソ野郎を引き寄せてしまったのか。
なんであんな揉め事を引き寄せてしまったのか。

そういうことを考えると、自分が情けなくて、悲しいという気持ちが沸いた。

リアルの知り合いにしたように、ネットで揉めた奴にも、もう一度対話を持ちかけてみようか、と考えたりもする。
だが、結局対話をしたところで、相手が俺をバカにした、拒絶した、という行動があった限り、仲直りも糞もなく、俺がただ、相手に死んでほしいという叶いもしない欲求に苦しむだけである。

それが本当に悲しく思える。

怒りによってうつ病的症状が治った→怒りが憎しみに変化

俺は中1の9月で学校に行かなくなり、中3までの間、うつ病に近いほど気分が沈んでいる毎日だった。
だが、高1になったあたりで、
「なんで俺がこんな苦しまないかんのじゃ、悪いのは周りじゃないのか」
という怒りの感情が沸いてきて、それから悲しみは吹っ飛び、活動的になった。

怒りによってうつ病が治ることがあると聞いたことがあるが、それだったのかもしれない。

そして一人暮らしやバイトをはじめ、ネットの配信やお絵描きを通じて攻撃的な活動をしていくうちに、最初は俺と仲良くしていた連中も愛想が尽き、不快感を覚えるなどして、次から次へと揉め事が起こった。
怒ることで自分ではなく他人を責めているので、周りの反感を買うのである。

揉め事に対しても、最初は相手への暴言を抑圧せずに吐きまくっていたが、某セックスレスの人、ガイキチ、裁判の男との揉め事あたりから、怒りは、辛らつな憎しみへと変わっていった。

相手に怒っていた時代は、
「批判や!」
などと言って暴れ、かわいげがあったが、本格的に相手の没落を望むようになってからは自分自身が疲弊した。

「友達のはずやのになんでそんなことをするのか」
という依存心や、相手に没落して欲しい、という欲望によって、怒りが憎しみに変わったんではないかと考えている。

『怒りの言霊』は欲望によって、『憎しみの言霊』へと変化する!
憎しみの言霊によって心の中の争いが起こる!
心の中の争いが起こると、人生が行き止まりになる!

悲しみは諦め

そして、
「恨み言を吐いても結局は自分が引き寄せた結果であり、対話を持ちかけても俺の欲望は叶わない」
「どれだけ望んでも相手が没落することはない」
などの現実を直視すると、憎いというより悲しくなってきた。

憎しみは、なんであんな奴がという気持ちや、願望が叶わないというジレンマによる、悔しさが根幹にあると聞いたことがあるが、悲しみにはそれがないように思える。

悲しみには、叶わない欲望を、諦めるという形で受け入れている感じがある。

憎しみは、相手が没落するか、心から謝罪する態度を示してくれない限りは、消えることがないと思う。
叶うはずがない欲望と現実のジレンマに、苦しみ続けるにはかなりの体力や気力がいるが、そんなエネルギーもなくなってしまった。

それなら諦めて悲しみに暮れるほうが、精神衛生的にもましだ。

結局俺は、怒りと憎しみを経て、昔のように悲しむ状態に戻ってしまった。
憎しみは完全に消えたわけではないが、これ以上強くならないと信じたい。

2016年12月17日 被害妄想や憎しみは現実の本人に触れることで解決する

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近頃、あれだけ憎んでいたリアルの知り合いと飲みに行ったりしている。
クルテクに話しかけ、絶縁したり、俺に対して、
「人生酒だけ」
とほざいたラーキルアに抗議してみたりしている。

つまり、人と実際にコミュニケーションをとり、事が現実で動いているということだ。

俺はこのブログで散々、
「リアルの知り合いのメガヤスが憎い、ヤーイヤイが憎い、その他もろもろが憎い」
と、辛らつな憎しみを記事にしてきたが、それらの8割くらいは被害妄想から来るものだったと最近思い始めた。

怒りや憎しみを抱くのは、まず現実で危害を加えられたり、マウンティングされたり、安確いじりを受けたりという、具体的な事象が起こったからなのは間違いない。

問題はその先で、俺はその場で怒るなり異議を唱えるなどの行為をとっさにとることができず、家に帰ってから悶々と考える。

「その場を乱したくない」
「めんどくさいやつだと思われたくない」
という恐怖心から、現実から逃げていると言える。

家で一人きりで悶々と考えた結果、出てくる感情は、大体、憎しみや恨みなどのろくでもないものであることが多い。

話し合わず、実際の本人の考えや心情もわからない状態で、自分の尺度で、
「相手はあの時どんな気持ちだったのか」
「あの発言はいったいなんだったのか」
と考えるのだが、現実から隔離された状態で考えてみても、現実離れした結論しか得られない。

ましてや、体調が悪かったり、他の嫌なことも重なっている状態だと、精神が平常時よりもネガティブになっているので、余計にまともな考えが出てこない。

その結果、現実のその人から乖離した、自分の中のその人を作り出し、勝手に憎んで、配信で暴言を吐いたり、憎しみ記事を書いたりしてしまう。

一人で考え続けると結局は妄想に陥る

もちろん、一人きりで考えることも広い意味では現実の一部だが、相手の気持ちを汲んでいないという意味では妄想だ。

現実に当人に会ってみると、俺が自分の中で作り上げた妄想のその人と、あまりにも乖離していて、自分の妄想癖が恐ろしくなる。
去年暮れにリアルの知り合いと会って話し合ったときも、そんな気持ちを抱いた。

現実の彼らが、俺が思っていたより遥かにまともな奴だったと知ると、俺が書いてきた彼らへの憎しみ記事や絵は、まさに自分自身の醜さ、自分自身への憎しみの投影だったんだなと思える。

俺は、非現実的な妄想を吐き出す場所としてネットを利用してきた部分がある。
現実と対峙しなくても自分の意見を発散したり正当化できるので、かなり危険なものだと思う。

散々、世の中への憎しみ、などと言ってきたが、それもほとんど現実と触れていない俺の妄想である可能性が高い。

結論としては、相手が憎いなら、一人きりで考えこんでネットで愚痴ったりせず、外に出て、現実で相手と対話してみることだと思う。
相手と話し合わずとも、自分の中で割り切って憎しみを消し去れる人ならいいが、俺はどこまでも憎しみを増幅させる傾向があるので、話し合ったほうが良い結果を生むと感じる。

そして、妄想で憎みすぎてもいけないが、妄想で許しすぎてもいけないと思う。
そうなると、現実で当人に会ったときに、逆に、
「ひどいやつじゃないか」
となってくる。

結局は、過度な憎しみでも過度な許容でもなく、現実の等身大の相手と対峙することしかないんじゃないかと思う。

そして、現実の相手と接していない間は、あれやこれやと考えない。
現実の相手が目の前に居ない限り、また自分の中で妄想の相手を作り出してしまうことになる。

これらは、妄想的な憎しみの話であり、実際にひどいことをされて、実際に話し合ってもなお憎しみが消えない場合は、また違う話になってくるんだろう。
その憎しみは、俺のように内向的で、一人きりで悶々とろくでもない妄想をしてしまう人間の憎しみとは、少し違うように思える。

上記の経験から、俺は精神的な意味で、本当の『ヒキコモリ』だったんじゃないかと思う。
自分の中の世界だけですべてを完結させようとするが、そこは気楽なように見えて、ひどい劣等感や自己蔑視がひそんでいる。
そんな場所に、実在の人間の妄想を作り上げても、結局ろくな感情を生まない。

とにかく、現実と対峙する。
そこから考えるしかないんじゃないかと思う。

2017年1月1日 どれだけ腹が立っても人に「死ね」とだけは言ってはいけない

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昔のネットの知り合いの中に、人に対して絶対に
死ね
という言葉だけは使うな、という言っている人がいた。

ふざけて言うのは勿論、どれだけ腹が立っても、
「死ね」
という言葉だけは使ってはいけないそうだ。

俺は最初それを聞いて、
「何を言ってんだ、ムカついたら死ねと叫んでやればいい」
と思っていたのだが、最近になって、
「死ね」
という言葉を使うなという人らの気持ちが少しわかってきた気がする。

「アホ」
「バカ」
「(目の前から)消えろ」
などの暴言は、相手に、
「お前は頭が悪い」
とか、
「視界にいると不愉快」
くらいの気持ちを伝えているに過ぎない。

だが、
「死ね」
という言葉は、相手に、
「絶命してほしい」
「この世から消えてほしい」
という思いをぶつけていて、ほかの暴言とは一線を画している。

「殺す」
だと殺害予告になってしまい、捕まるので、それは嫌だから、
「頼むから自殺してくれ」
という切実な願望にもきこえる。

相手が本当に死んだら

「「死ね」と軽々しく言える人は、「死ね」という言葉がどれくらい重いかということをわかっているのか」
「自分が相手に放った「死ね」という言葉で、相手が次の瞬間に絶命したり、もしくは、真に受けて自殺したりしたらどうするのか」
ということなんだろう。

人が死んだら、未来が完全に閉ざされ、一切の思考、行動ができなくなり、何千年何万年経っても、二度と生まれ変わることはできない。
周りの人も悲しむだろうし、その人を追って死ぬ人も出るかもしれない。

当たり前のことではあるが、よく考えると本当に恐ろしいことである。

そういう風に、死というものを少しでも真剣に考え、恐怖してる人は、「死ね」という言葉を使う人間を許せないんだろう。

俺はその知り合いの話を聞いてからも、配信などでムカついたら度々「死ね」と言ってきたが、「死ね」と言うたびにその知り合いのことを思い出していた。

最近は、テレビやアニメやネトゲで
「死ねw」

「死ねばいいのに」
という言葉を聞いたりすると、そこまで不快には感じないが、瞬間的に上記のような重苦しいことが頭をよぎるようになっている。

次第に俺は「死ね」という言葉を意図的に使わないようにし始めた。
今は「死ね」という言葉を使うことはほとんどない。

「死ね」よりも「苦しめ」

だが、本当に死んでほしい人間というのはどうしてもいる。
わざわざ挙げないが、このブログで散々書いてきた連中だ。

そういう連中には冗談抜きで心の底から死んでほしいが、よくよく考えると、俺の願望が叶い、そいつらが本当に死んだとして、俺は手放しで喜べるのだろうか。

そいつが死ねば上記のように、この世から消え、一切の思考・行動ができなくなり、周りの人間も悲しむだろう。
だがそれによってそいつは、生きることのすべての苦痛から開放されるとも言える。

そしてこの世に残った俺だけが、生きることの苦痛を味わい続けなければならない。

そうなると結局、死さえも、一長一短ということになってきて、相手が死んだとしてもすっきりしない。
(あくまであの世がないと仮定した話だが。)

そう考えるとなおさら、「死ね!」と言ってみたり、願ってみても仕方がないんじゃないかと思える。
生きながらに延々と苦しんでくれたほうがよっぽど清々するだろう。

だから、
「死ね!」
よりも
「(死ぬまで)苦しめ!」
のほうがひどいんじゃないだろうか。

どちらにしても、そんな言葉を使いたくなるような対象を作らないに越したことはない。

2017年3月21日 自分が好きなものでも嫌いな人がそれを好きだと嫌いになる

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二十歳前後の頃くらいから、
『嫌いな人間や憎い人間がやっている事と同じことはやらない』
という自分の中のルールがいつの間にかできていた。

『嫌いな人間が好きなものは嫌う』
とも言い換えられる。

だが、最近になってそれらがよくわからなくなってきた。

代表的な例が『スプラトゥーン』と『パルテナの鏡』。
嫌いな人間がそれらをやっていたので、俺は絶対にやらないと決めている。

でも、もし何かの偶然で、それをやっている憎い人物に出遭わなかったら、俺は普通にスプラトゥーンやパルテナをやれていたと思うとよくわからない。
どちらにしてもその二つには興味がないのでやることはないと思うが。

逆に、今自分が好きでやっている事でも、いずれ、同じくそれを好きでやっている憎い人間が現れたら、俺はそれを嫌いになってやめてしまうのだろうか。
現れない限りは好きなままやり続けられるということだが、どういうことなんだろうか。

とりあえず、普遍的なものであるほどそのルールは適用されなくなる。食事など。
嫌いな人がご飯を食べていても、俺も食べるのは当然だ。

単に、
『その人物を嫌う気持ちが、好きなものを好く気持ちに勝っている』
もしくは、
『好きなものの重要性が低かった』
ということなんだろうが、現に苦しい以上なんとかしなければならない。

関連リンク
自分の好きなものを嫌いな奴が好きと言ったら殺意がわきませんか? – Yahoo!知恵袋

2017年8月17日 嫌いな人間の好きなものを嫌う必要はない その人間そのものを嫌うべき

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今までずっとこのブログで、某セックスレス自慢の人をはじめとして、
「嫌いな人間が好きなものを嫌いになる」
「自分が好きなものを嫌いな人間が好きだった場合に心が壊れそうになる」
などと言ってきたが、最近考え方が変わってきた。

例えば一番わかりやすい例で言うと、某セックスレス自慢の人が大好きな『スプラトゥーン』を俺は大嫌いだったのだが、そんな風に思う必要はないと気づいた。

同じように某セックスレス自慢の人が大好きな『ダースのチョコレート』『スパイラルグレープ』『パルテナの鏡』なども某セックスレス自慢の人がそれらを好きだからといって俺はそれらを嫌う必要はない。

考えてみると当たり前の話なのだが、全ては某セックスレス自慢さんという人間の全体像が問題なのであって、その全体を構成する『ダースのチョコレート』『スパイラルグレープ』『パルテナの鏡』などの『細部』をいちいち嫌悪していくメリットはない。

最近Twitterで色々な著名人をフォローしてみると、俺の好きなミュージシャンがとてもスプラトゥーンを好きなようだった。
前にも書いたように、俺のフォロワーの人にもスプラトゥーンをやっている人がかなりいる。

俺はその人たちのことを、最初は某セックスレス自慢の人と同じく、
「スプラトゥーンをやっているから某セックスレス自慢の人と同じ要素を持っている人間だ」
と思って嫌悪しそうになっていたいたのだが、その一点だけで人を嫌悪していたらきりがない。

確かにスプラトゥーンと聞くとどうしてもまだ良い印象が持てない。
だが、何度も言うようにスプラトゥーン自体には何の罪もない。

俺の大好きな人がスプラトゥーンを好きかもしれないし、大量殺人者がスプラトゥーンを好きでもおかしくない。
どんな人でもスプラトゥーンを好きになる権利はあるし誰もそれを止めることはできない。

もっと一般的な事で言うと、俺の好きな人間も嫌いな人間もみんな『ご飯』や『パン』を食べていて、『ゲーム』をやっていたりもする。
スプラトゥーンは『ゲーム』の中でも限られたものだから俺は特別気になってしまったのだろう。

『ダースチョコレート』や『スパイラルグレープ』もそうだ。
『食べ物』や『飲み物』野中の一つである。

嫌いな人間が『スプラトゥーン』をやるのも、あらゆる人間が『パン』や『ご飯』を食べたりするのと同じようなものだ。

その人間の『細部』ではなく『全体』を注視する

つまり問題は、その人間を構成する『全体像』だということだ。

『スプラトゥーン』
『パルテナの鏡』
『飄々とした人格』
『ダース』
『スパイラルグレープ』
『セックスレス自慢』
など 単体では嫌う必要性もない要素を網羅している、
『某セックスレス自慢の人』
というその人間の、
『全体像』
が問題だ。

俺は今回、『細部より全体が大事』ということを言いたいのだが、それを物で例えてみる。

たとえば、無人島で取り残され、空の飛行機に向けて『sos』の文字を浜辺に書くとき、『木の枝』を集めて『sos』と書くか『魚の死骸』を集めて『sos』と書くか『金塊』を集めて『sos』と書くか、どの素材を使って書いても『全体』として『sos』という文字が見えれば問題はない。

この場合、『sos(全体)』という文字を構成する『素材(細部)』には大した意味がない。

『スプラトゥーン』
『パルテナの鏡』
『飄々とした人格』
『ダース』
『スパイラルグレープ』
『セックスレス自慢』
などの、いくつもの、
『点』
で結ばれて出来た、
『線』
が描く、
『全体の形』
が問題、と言うとわかりやすいはずだ。

全体と細部は相互作用しているので、もちろん細部に意味がないことはない。
だが、俺はあまりにも、某セックスレス自慢の人に関しては『細部』にこだわりすぎていた。

行き当たりばったりで書いているので言いたいたいことが伝わっているかわからないが、俺が言いたいのはとにかく『その人間』という『全体像』を徹底的に嫌えということだ。

『嫌いな人が自分の好きなものを好き』
でも自分はその好きなものを嫌いになる必要はない。

『嫌いな人が好きなもの』
をこちらは嫌う必要はない。

『嫌いな人が好きなものをこちらは嫌う』
というのは、
『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』
ということわざもあるが、そんなことをしている間は本当にその人間を嫌いきれていないと言えるんじゃないだろうか。
その人間の細部しか嫌えていないからだ。

その人間を徹底的に嫌い憎んだ時に、
『その人間の好きなものを嫌いつくす』
という方法もあると思うが、次の段階としては
『その人間を構成する全体を徹底的に嫌っていく』
しかないと思う。

全体像を嫌えば細部に囚われない

俺はこれから嫌いな人間の細部は気にせず、全体像を嫌っていくつもりだ。

単純に興味が無いので、これからも俺はスプラトゥーンをやるつもりはないが、誰かに誘われたら 喜んでやろうと思う。
ダースも食べたくなったら食べていい。
スパイラルグレープは今販売していないと思うが、喜んで飲んでやろうと思う。

そして初対面の人が『飄々とした人格』でも、それだけの人間で嫌おうとするのはやめる。
誰かが『セックスレス自慢』をしてきてもすぐには怒らなくていい。

某セックスレス自慢の人という存在に『自分の選択や自由意思を阻害されない』ということだ。

俺は某セックスレス自慢の人という全体像を構成するこまごまとした『細部』にとらわれず、某セックスレス自慢の人という全体像を俯瞰で捉え、徹底的に嫌い尽くしていこうという段階に入った。

ちなみにこの話は『人間をジェンダーや国籍や年齢でしか見れない人間は終わっているという話とつながっている。

『男性』という性別や、『日本人』という国籍・身体的特徴、『24歳』という年齢も、すべて、その人間という全体を構成する細部でしか無い。

以前の俺はそういった『細部』にこだわって人間を見ていた。
だから、某セックスレス自慢の人の件も『スプラトゥーン』などの細部に拘って見てしまっていたのだろう。

これからの俺はとりあえず『細部』ではなく『全体』を見る方にシフトしていくつもりだ。

このことで気持ち的にすごく楽になったし、次の段階はどうなるのか楽しみだ。

2017年12月27日 被害妄想は現実の本人と接して解決する事 関係性を掴みなおしていく事

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今まで散々名前を出していた『某セックスレス自慢の人』と数年ぶりに和解しました。
半分以上、俺の被害妄想でした。

その人との一連の出来事と、最近気づいた、
交換不可能な関係性

存在を掴みなおし続けるということ
がつながったので、思ったことを書いていきます。

『関係性の掴み直し(現実の本人と触れる)』
『交換不可能な存在(他の誰とも代わりのきかない存在)』
については、自分で気づいた部分もありますが、あるブログ文章を見て学んだ部分もあります。

読み違えている部分もあるかもしれませんが、多分合っていると思っています。

恋愛だけじゃなく、あらゆる人間関係に言えることだと思います。

俺は現実のセックスレス自慢の人に連絡を取らず、頭の中で延々と考え続けていた。
その内に、俺の頭の中にしか存在しない、セックスレス自慢の人の幻がどんどん肥大化しモンスターになっていった。

これが、存在の掴み直しが出来ていなかったということだと思う。
俺はセックスレス自慢の人との関係性の根源を掴みなおしつづけることに見事に失敗していた。

正直アルティーと同じように、某セックスレス自慢の人がネット引退して『続報」が何もなければ、現実の本人を掴み直すことも出来ない。
その場合、俺の想像上の某セックスレス自慢の人と現実の某セックスレス自慢の人の乖離は判明すらしなかった。
それが良いの悪いかはわからない。

いや、ちゃんと掴み直せて良かったに決まっている。

現実の本人を掴み直せなければ、俺の脳内の優越感モンスターは一生消えないままだった。

どちらにしても某セックスレス自慢の人を敵に仕立て上げざるを得なかった自分の中の問題を解決するしかないのは同じ。

二度と掴み直せない存在

上述のようにアルティーはネット引退したので新しい情報がない。
これは死んだ恋人に片想いをし続けるのと構造が全く同じ。

俺が今、自分の空想上の脳内人物を作り上げて抹さつ不可能にまで達してるのがアルティー。
次点でクルテク、ガイキチ、らくぅさん、なりあきさん辺り。
このまま続報がなければ永遠の片想いだ。
リアルの知り合いもそうかもしれない。

その人たちは掴み直せない存在であると同時に、『交換不可能』な存在だ。
つまり、他の誰とも代わりのきかない、かけがえのない存在。

交換不可能な存在に関しては書くと長くなるので割愛するが、少なくとも、今現在の俺にとって交換不可能なのだと言える。
未来は未定。

交換可能性、交換不可能性さえ、刻一刻と変わっていっており、それさえも掴み直しが重要なのではないかと思う。

たぶん俺は、別れて連絡とれない交換不可能な重要な女がいたら、間違いなく脳内人物に仕立て上げてしまっている。
アルティーのように、SNSや配信で表出しまくって二次元オリキャラにしてお絵描きのネタにしてる。

たぶんそういう性分が、俺が童貞である大きな所以でもあるだろうし、最高に気持ち悪いと思われる部分なんだろう。
実在の重要な人物をデフォルメして自分の中に取り込んで脳内人物に仕立て上げて、しかもそれを自分の中だけで完結させずにわざわざ表出して臨場感あげて楽しもうとする。

ただそんな女はいなかった。
異性はネタにしづらいってのもあるから、それがメンタルブロックになって出会えなかった、未だに童貞、というのもあるかもしれない。

もしアルティーと同じくらいの交換不可能性と、掴みなおし不可能の存在が女だったら人生は違っていただろう。

独白で表出する際にどういう呼び方をするか

もう某セックスレス自慢の人のことは、名前も出さない。
SNSやブログでの独白で名前を出せば出すほど、ほんの少しずつ、現実の本人ではなく脳内人物のの方の臨場感があがってしまう。
気づかない内にどんどん肥大化していく。

もう他人は、掴みなおしができる存在か、絶対に掴み直しができない存在以外、本人のいないところで名前を出さないほうがいいかもしれない。

俺はどうしても独白して表出したがる孤独力のない糞坊主だが、その際は、個人名だと枠組みが狭すぎるので、なんか呼び方を考えたい。

まぁ、名前を出さないのが一番いい。
もっと言えば、その人がいないところでは、『その人のことを一切考えない』ほうが良いとさえ思う。

人間関係は、会っていない(現実の本人を掴み直していない)時間のほうが圧倒的に長い。
その間にも刻一刻と関係性は変わっている。
その人がいないところでその人のことを考えても、過去のその人をモデルにした脳内人物でしかない。

オリキャラとタルパ

現実の本人を掴み直していく、ということが重要なのは間違いない。

ただ、脳内人物という名の奴隷もほしい。
創作をしている以上、そういった不健康で病的な行為が好きなのも事実だ。

ものを作ってる人間だったら多少なりともそういう部分(脳内人物)あると思う。
ただその脳内人物を自分の中だけで完結できるならまだいいと思う。

俺は寂しがりな部分とかも影響して下品なほど表出に固執してたから、一連のトラブルになった。

多くの人間が一次創作ではなく二次創作をやるのは脳内人物にモデルを存在させることで、情報空間の枠組みを狭めて臨場感を上げたいんだろう。
俺が萌系のオリキャラに対して描く衝動がうまれてきづらく、アルティーばかり描きたくなるのは実在の人物をモデルにする臨場感に頼る癖がついてたからだと思う。

ただ、脳内人物作成も悪いことではなく、現実の本人の掴みなおしのバランスが重要なんじゃないだろうか。

オリキャラやタルパに関してはもともと現実の本人というものが存在しないので、そういう意味での危険性は少ないと思う。

今現在、オリキャラは、ちほちゃん、りささん、あきらくんの3人がいるが、もはや交換不可能になってきている。
最初はただのオリキャラだったが、キャラ付けをし、いろいろな絵を描いていくうちに、交換不可能になってきた。

上述の実在の人間関係と同じく、自分で、交換不可能になる方向に仕向けていったんだと思う。

脳内人物の存在の影響は消せない。
自分が作り上げた幻想だとしても。

これからは、現実の人間に関してはちゃんと現実の本人を掴み直し、脳内人物に関しては、憎しみの対象ではなく、絵を描いたりして自分も他人も楽しませる存在として使っていきたい。

交換不可能な存在

交換不可能な存在というのは重要だ。
交換可能ということは誰とでも代わりがきくということだ。

交換不可能な存在が一人もいない人生ほど虚しいことはないと思う。
誰にも交換不可能だと思われていないというのも同じ。

俺は、自分自身が交換可能な存在なんて耐えられない。

俺は誰かと深く交換不可能な関係になりたいから、これだけ奇をてらってどこにもいないような存在になろうとしているのだろう。

そして、自分自身にとっても、交換不可能な自分自身でありたい。

でもそれが原因で過去に執着してしまうこともある。
それなら、交換不可能な未来を描けばいいんじゃないだろうか。

誰とも代わりのきかない目標を持って、社会に唯一無二の価値を提供すればいい。
それが自分自身にとっても、誰にとっても、交換不可能な俺である条件だと思う。

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