今までこのブログの主に『社会カテゴリ』に、俺が経験してきたあらゆる人間関係のゴタゴタを書いてきた。
「もう誰とも関わらない」
とか言ったり、
「配信再開する」
とか言ったり、色々と変遷してきたが、2018年現在、まだまだ人と関わろうとしている。
実際に人間関係から何かを感じたり考えたり、本を読んだりしてきた結果、今現在、人との縁(関係性)において俺が最も重視している判断基準は、
美しいか、美しくないか
である。
美しさの基準
今まで俺は、『嫌いなタイプの人間をパターン化』するとか、『年下とは付き合わない』とか言って、色々と人や物事の判断基準を設けてきた。
結局のところ最も枠組みが広く、俺に合っていると感じた判断基準が『美しいか、美しくないか』だ。
この基準はかなり漠然としていて、気まぐれで、ほとんど直感や感性に従っている。
美しいかどうかというのはいわば美観であり、超個人的なもの。
男だろうが女だろうが、年下だろうが年上だろうが、美形だろうがブサイクだろうが、金持ちだろうが貧乏だろうが、何かの技術に長けてようがなにもできなかろうが、自分のその時の直感や感性で、その人を『美しい』と感じれば、フォーカスを合わせても良いと思える。
じゃあどんな人が美しいのかと言うと、俺もよくわかっていない。
ただ自分が美しいと思える人を見れば『安心する』というか「生きててよかった」と思えるというか、力をもらえるというか、心が軽くなるというか、深遠な気持ちになるというか、どこまでも漠然としたもの。
詳しく分析すれば間違いなく法則性はあるんだろうが、大事なのは、人や物を見て、上記のような感情が自然と湧いてくるかどうか。
美しいと『感じる』かどうかが重要。
「美しいものと一緒にいると、自分は間違っていないと思える」
— 村上龍BOT (@RyuMurakamiBT) October 24, 2018
美しくない人
どれだけすごい人物だろうが、上記の感情が湧いてこないのであればその人は美しくない。
そして、美しくない人間とは一切関わる必要がなく、フォーカスを合わせる必要もない。
例えば今夏に俺が75万円で転売のコンサルを受けようとしてしまった女性。
その人は確かに若くしてこれまで何千万も転売で稼いできた人間であり、金持ちで、自由に暮らしているかもしれないが、人としては全く美しくない。
人の嫌がることをして大金を稼ぐ人間が美しいわけがない。
俺に、
「稼ぎ方教えてくださいw」
とすり寄ってきた広告収入事業初心者も全員そうだ。
どっからどう見ても美しくない。
歌がメチャクチャうまいひとだろうが、絵がメチャクチャ上手い人だろうが、世の中に影響力のある有名人だろうが、俺が思う美しさから外れていたら、その人らは美しくなく、フォーカスを合わせる価値がない。
美しさとは『トータル』としてその人がどうかだと思う。
どれだけ外面がよくても、裏でやっていることが美しくなければアウト。
今まで俺がモメてきた人物(リアルの知り合いなど)も全員そうだ。
モメたから美しく見えないだけだろという意見が飛び出すが、俺としては、
『その人らはもともと俺の根本的な美観からかけ離れていた人らなのに、関係を継続してしまったからモメた』
という方が正しいと思う。
『自営業』や『広告収入事業』や『地元や学校が同じ』という『一部分』で共通するからと言って、『トータル』として美しくない、上記のような人たちと絡んでも、最後はまた今までどおり揉めるだろう。
だから、一部分ではなく『トータルとして美しいかどうか』が重要。
関わる以前にフォーカスを合わせるかどうか
さっきから『フォーカスを合わせる』と書いているが、それはあくまで、関わりにいったり関係を継続する以前に、『フォーカスを合わせるかどうか』が重要だからだ。
簡単に言うと、その対象を『見るかどうか』『見続けるかどうか』。
例えばツイッターを見ていて、リツイートなどで流れてきた人物の活動を見に行く時もそうだ。
その人がパット見で美しくないなら、すぐに見るのをやめる。
すぐに『フォーカスを外す』。
そこから、相手もこちらを認識し、言葉をかわし、『関係』を構築するかどうかは、さらに先の話だ。
美しくないものはまず、関係を構築する以前に、『フォーカスを合わせない』『すぐに見るのをやめる』『見ない』のが重要。
それに、こちらがいくらその人を美しいと思ってフォーカスを合わせていても、向こうはこちらを強烈に美しくないと感じて拒絶したがる場合もある。
それを見極めるためにも、まず『フォーカスを合わせるかどうか』を考える。
美しいものを見ているときの自分は美しい
この世は独我論であり、自分の認知が現実を作っているのであり、自分のこの世界に登場する人物やものはすべて自分自身であり、それらが発する言葉はすべて自分自身から出たものだ。
だから、自分の世界に『美しくないもの(人、言葉)』が登場するということは、『自分自身が美しくない』ということと全くイコール。
逆に言えば、自分自身がどれだけ美しくなく、糞みたいな状況でも、自分の世界に『美しいもの』が登場し、それにフォーカスを合わせられるなら、自分自身も十分美しいと言える。
だから美しいものを見たいし、できることなら美しいものとだけ関係を構築したい。
他でもない自分自身が、少しでも美しくありたいからである。
それなのになぜ、美しくないものを見つめ続けたり、関係を継続してしまったりするのか。
それは結局俺が『臭いものに蓋をする』のを恐れていたからだと思う。
だが、潜在意識は否定形を理解しないので、『臭いものに蓋をする』とか言っていると『臭いもの』ばかりにフォーカスを合わせ関わっていく人生になってしまう。
だから今後は、『美しいものだけを見続ける』『美しいものに触れ続ける』ということを意識したい。
うまく説明できないがそれは『臭いものに蓋をする』のとは根本的に違うものだ。
美しさと好き嫌い
俺は少し前に、
「おなもみさんは苦しんでいるように見える」
と言われてショックを受け、悔しくて考え込んだことがある。
だが、苦しんでようが楽だろうが、大事なのは美しいかどうかだと考えたら、楽になった。
『美しいか美しくないか』という価値観は枠組みが広いが、『好きか嫌いか』という感覚も枠組みは広い。
少なくともほとんどの人間は、『好き嫌い』で人や物事や状態を判断することが多いと思う。
「苦しんでようが構わない、苦しむのが”好き”だから』
とか、
「楽なのは”嫌い”」
とか色々ある。
だが『好き嫌い』という判断基準はなにかが足りない。
『好き嫌い』という判断基準を『美しいか美しくないか』という判断基準に置き換えることで得られる視点が必ずある。
確かに俺が言っていることも、
「美しいから好き」
「美しくないから嫌い」
でしかない。
だが、
「好きだから美しい」
「嫌いだから美しくない」
は必ずしもそうではない。
油断すると、『美しくないものに惹かれてしまう(好きになる)』可能性がある。
パット見嫌いだが、よく見ると美しい、ということもたまにある。
だから俺は、好き嫌いじゃなく、美しいか美しくないかを基準にしたい。
『美しいか美しくないか』という価値観は、『好きか嫌いか』という価値観より、崇高に感じる。
そして、『美しいか美しくないか』は『綺麗か綺麗でないか』とも違う。
後者は上辺のポジティブさだけを追い求めている感じがある。
美しいかどうかとは、もっと深遠なものだ。
ちなみに今思うと『真の苦しみ』とは『美しくないものに触れ続ける』ことなんじゃないかと思う。
美しさと孤独
ここ最近また配信を再開したが、『美しくない人』が来たらすぐにブロックするようにしている。
ツイッターのフォロワーも増えてきたが、『美しくない人』はフォローしないようにしている。
リアルやネット問わず『美しくない言葉』を吐きかけてきた人間のことは、相手にもせず完全スルーするようにしている。
美しいもの以外に時間を割いている時間は一切ないからだ。
何度も書くように俺は美しいものを見ていたい、美しいものに触れていたい。
それだけが結局、人間関係での無駄なストレスやいらだちや憎しみを解消させる。
美しいものだけを求め、美しくないものは毛嫌いし、自分の世界から徹底的に排除していく。
それはもしかしたら、潔癖的な無菌の世界を求めているようで危険なのかもしれない。
俺が思う美しいものとは、まず間違いなく、数が少ない。
正直言って世の中のほとんどは美しくないものだ。
そうである以上、美しいものだけを求めれば間違いなく『孤独』になる。
とても健康的には思えない。
だがそんなことは関係ない。
美しさを求めた果てに破滅するなら本望だとすら思える。
美しさには、それくらいの魅力や魔力がある。
美しさに飲み込まれ、美しいものと同化・融合できるなら、破滅したって構わない。
まとめ
なんかめちゃくちゃかっこつけた記事になりましたが、現時点で俺がたどり着いた大きな結論です。
このまま美しいものを求め続けたらどうなるのか、自分の人生を使って実験していきたいと思う。
※興奮して『美しいものだけを求める』と書いたが、美しくも美しくなくもない『普通』の人とは普通に関わります。
ただ、『美しくないもの(醜いもの)』を自分の世界から徹底的に排除したいのは事実。