世の中への憎しみと独我論とニヒリズム(虚無主義)と人生行き止まり感 小5の時点で天災を渇望していた

まとめてあって長いので、興味のある見出しに飛んで読むことをおすすめします。

目次

2014年12月31日 今年(2014年)の振り返りと来年(2015年)について

今年は、特に良いことも悪いこともない年でした。

上半期は、とにかく人とモメまくり、
「もう配信も音楽制作もやらん」
といって、断捨離をして後悔したりした。

3月には定時制高校を退学した。

下半期からはやる気が出てきて、Youtubeに動画をあげたり、BOOTHでステッカーや絵画を販売したりした。

11月には安確いじり宣言 リミックス盤を出した。
あと、11月で今のバイトをはじめて2年が経った。

声帯にポリープできるレベルの風邪はひきましたが、他には特に大きな病気や事故もしてないので、そこそこ良い年だったと思います。

今年やった大きなことと言えば、9月にDIYで自作防音室を作ったことでした。
アクセスの統計を見ると、それに関する記事が、俺のこのブログのアクセス数のほとんどを占めています。

Twitterをやめたので、愚痴などを吐き出す場所として、このブログの雑記カテゴリに、リアルの知り合いにされた仕打ちなどを書いてたが、そういう記事にはほとんどアクセスがなくて笑ってしまった。

人間関係は最悪の状態

昨日、家族と話してて気づいたが、ここ数年の俺の生活は、人間関係という点において、本当に闇の中だ。
2年前、バンドメンバー募集サイトを利用し始めたあたりからだろうか。

六星占術とかはよく知らないが、わかりやすい言葉を使うなら、大殺界みたいな状態だと、自分でわかる。
こちらから人と知り合おうとすると、ほぼ間違いなくロクなことにならない。

今思い返すと、最悪の場合、死さえあり得ると感じる。

現に、去年か一昨年あたりからの人間関係では、一歩間違えば大変なことになっていた、ということがいくつかあった。

例えば、一昨年の今日、リアルの知り合い(メガネ安確、劇団員の男、調理師の男)と忘年会をやり、免許取立ての俺の運転で、食後のドライブをして、そのままみんなを家に送ったのだが、他のみんなを送り終わり、最後に劇団員の男を送ってる途中、信号無視の老人を轢きかけ、急ブレーキ急ハンドルで避けたことがあった。
もし轢いていたら当然大変なことになっていた。

バンドメンバー募集サイトで知り合った、俺と同い年の、ドラマーの男というゴミ野郎の車に何度か乗せてもらったことがあるのだが、深夜の国道で100km出したり、出発して20分間もサイドミラー空けるのを忘れてたり、サンダルで運転したり、挙句の果てには姫路で追突事故を起こしたりした。
他にも、バンドメンバー募集サイトでは、ソープランドのボーイをやってるDQNが来て怖い思いもした。

上記のように、ここ数年、こちらから知り合った人間とは本当にロクなことになっていない。
国道で100km出された時は、運が悪かったら死んでてもおかしくなかったと思う。

動いていけない時期

今年で言えば、ツイキャスのお絵描きカテゴリの配信にコメントすることで、結局は生涯ボケクソ安確ポンチン低俗LINEスタンプ野郎やらとモメて、憎しみが募りまくり非常に疲れたりした。

こういう状態がいつまで続くのかはわからないが、終わるまでは、こちらから人と知り合おうとしないほうが良いという事は間違いない。
向こうから来た場合でも、淡々と付き合うに越したことはないと思う。

俺の性格とかそういう問題を超越して、運気の流れというのは必ずある気がする。
新しく物事を始めてはいけない、新しい人間関係を作ってはいけない、『動いてはいけない時期』というものがある、と。

もっと早く気づいていればよかったとは思うが、とりあえず、今自分が生きていることに安堵します。

来年は、とある予言では南海トラフ巨大地震が起こるとかどうとか言われているし、俺もここ数年、なんだかんだで平和に過ごしていたので、そろそろ波がくるような気がして怖い。

来年の活動予定だが、キチガイ絵は当分休止し、音楽制作や他の事に力を入れたい。

髭林おなもみBANDの2ndアルバム『生涯ボケクソ人形』は、収録予定の曲が多すぎて、なかなか着手できなかったので、曲を減らして3rdにまわした。
これで何とかいけそうな気がする。

4th用の曲もできているので、ぼちぼちやらないと溜まる一方だ。


出典:髭林ダイナマイト進化録 2014年編 | 髭林おなもみ [pixiv]

キチガイ絵は休止しますが、髭林ダイナマイト進化録 2014年編は投稿しておきました。

それでは改めて、今年もお世話になりました。
来年もよろしくお願いします。

2015年1月18日 身近な人の死とその影響 人生に意味がないと思える瞬間

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2011年、俺が一人暮らしをやめ実家に帰ってきてすぐ、隣のマンションに住む夫婦の、嫁さんが亡くなった。
死因は心筋梗塞で、病床に伏すこともなく急死だった。

隣人のおばさん

そのおばさんは、家事もあまりせず、毎日のんびり過ごしていて、いつも精神安定剤かなにかでラリっていた。
小学生の頃の俺は、それが怖くて、つっけんどんな態度をとってしまっていた。

そのせいで、
「あたしはおなもみくんに嫌われてる…」
と勘違いをさせてしまっていた。

高校に入るころには、俺も成長して、音楽好きのそのおばさんが貸してくれたメタルのカセットテープなどを聴いたりして、わずかだけど交流していた。

近くに住んでるし、絵描くのが好きな人だし、夫婦ともに音楽好きだし、俺も暇だし、
「もっと交流してれば」
と、亡くなってから後悔だけが残った。

一緒にカラオケに行ったり、飯を食べに行ったり、麻雀をしたり、遊ぶことができたはずだった。
今、家族とそのおばさんのことを話すたびに、どれだけ願っても死んだ人は戻ってこないと痛感する。

いじめられて自殺した中学二年生の男子生徒

去年(2014年)の8月暮れに、近所の中学二年生が高層ビルの何十階から飛び降り自殺をした。
始業式の日の朝だったらしい。
理由はいじめらしく、夏休みが終わり、新学期が始まるとまたいじめられると思い、学校にも家にも逃げ場がなく、自殺したんだろう。

俺も中1から卒業までほぼ不登校だった。
理由はいじめではないものの、なにかその生徒にシンパシーを感じてしまった。

最近は、川崎市で中1が首を切られて殺されたそうだ。
いじめた奴はこれからものうのうと生きていく。
不条理すぎる。

人生に意味がないと思える瞬間

身近な人の死は悲しい。
だが、テレビのニュースなどで、人が死んでるのを見ると、
「人生には意味がない」
と強く思えてしまい、こう言ってはあれだが安心する。

小6で人生ドロップアウトして、学校や受験から逃げ捲ってきた俺がのうのうと生きて、会社員など、がんばってきた人間があっけなく死ぬのを見ると、結局、人生には意味がないんだなと思える。

つまり、頑張る意味が無い。
苦しむ意味が無い。
どうせ死ぬ時は死ぬ、と。

あの世とか来世が存在しないと仮定した話だが。

俺みたいなクズが死ぬなら妥当だが、頑張ってきた人間がいきなり死ぬこともある。
その世の中の不条理さが、俺のような人間には救いである。

俺なんかは、死ねば妥当、生きてたら儲けくらいのマイナスさ加減だ。

この幼い最低の考えは中2から全く変わっていないので、今後も変わらないだろう。
この考えが変わらない限り、死に物狂いの努力や、苦しいことは絶対にしないだろう。

俺も、もしあの時自殺してたらと思うと、これからの人生がおまけに思えてくる。
そういう捉え方はしないほうがいいとは思うが、顔も名前も知らないその生徒のことが、いつまでも忘れられない。

ほとんど交流できないまま亡くなってしまったおばさんへの後悔も、生涯消えないだろう。

2015年2月5日 小5の時点で天災を渇望していた

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俺は小4でパソコンと自分の部屋を与えられた。
毎日2chにアクセスして、板一覧の上のほうにあった、地震系の板をROMり捲っていた。

それから昼夜逆転生活が始まり、鬱状態になっていった。
いつも昼夜逆転した状態で朝を迎えていたので、眠くて憂鬱で、小5の時点で、学校に行くのが嫌で仕方なかった。

2chの地震板に張り付き、地震予知スレを見ては、
「明日俺の住んでる地域に巨大地震が起こってくれ」
と願っていた。

地震雲というのも気になりだして、部屋の窓からいつも雲を観察していた。

あれから10年経つが、何一つ変わっていない。
今も早く地球が滅亡してくれるのを願っている。

中1の1学期には、彗星が地球に衝突するかもしれないといってネットで盛り上がっていて、その時も期待してたが結局なにも起こらなかった。

地球が滅亡してほしい理由

地球が滅亡すれば、怠けて生きてきた皺寄せが来る前にすべてを帳消しにしてくれるだろう。
頑張ってきた人間も、怠けてきた人間も、平等に死ぬ。

それ以外にも、俺がモメてきた憎い人間も死んでくれるし、俺の嫌いなタイプの人間もすべて死んでくれる。
嫌いなタイプの人間とは、直接会ったことはないが、街中やネットで見かけるような、とにかく俺が気に入らない人間である。
具体的には、某定型文を使ってる連中だとか、Twitterで暴れてる連中だとか、色々いるけど挙げるときりがない。

でも結局は、
「そういう嫌いなタイプの人間も、俺が認識さえしなければ、存在しないのと同じなんだな」
と思うと、地球が滅亡してそいつらが死ぬのも、俺が自殺して、自分が認識してる世界ごと消してしまうのも、同じだと思い始めた。

俺が田舎の農家のおっさんなら、ネットで息巻いてるそういう連中を知らずに暮らせるんだが、知ってしまったからには、記憶喪失にでもならないと忘れることは出来ない。

ただ、地球が滅亡しようが自殺しようが、嫌いなタイプの人間が死ぬ姿を見ることだけは出来ない。

2015年5月1日 人生行き止まりの極限 世間と価値観が乖離しすぎている

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本当に人生行き止まりが極限にきている。

キチガイ絵やおなもみBANDや一発ネタやこのブログの記事など、俺がやっている創作活動はすべて、
『わかりやすさ』
を重視して作っている。

自分のやりたいことをやるものの、あくまで、受け取った人間にわかりやすいようなポップさのある仕上げをしてきたつもりだった。

しかし、いよいよ誰にも相手にされなくなってきたところを見るに、どこまでも自分の価値観だけを追及してきた結果、世間と自分の価値観がズレ捲くってるんじゃないかと、いまさら思い始めた。
小学生時代からズレているが、日に日にズレが大きくなっていくうちに、一定のラインを超えた感がある。

ツイキャスを永久BANされたあたりがターニングポイントだったと思う。
ツイキャスで配信してる時は、何も考えてない頭スカスカのガキがコメントしてきて、そういうのにもあくまでわかりやすいように対応してきたが、永久BANされてふっきれ、一切相手にする必要がないと思い始めた。

かといって大人になったわけではなく、同年代からはガキだと思われ相手にされず、上の世代からも当然ガキだ厄介だと思われ相手にされない。

中身は子供なのに、外面だけは大人のような冷たさがあり、まさに大人子供の極限に来た感がある。

自分を責めることはしない

作品に関してだが、昔から一貫して、低レベルでつまらないものしか作れないことは変わらないものの、結構意識していた『わかりやすさ』も、自分が思っているより遥かに低いと最近わかりはじめた。
つまり、入り口は狭くとっつきにくいのに、中身もつまらないというどうしようもない状態である。

ただ、あくまでマイペースに楽しみたいのは変わりないので、ストレス発散のために気が向けば作っていくとは思う。

安確いじりという言葉なんかは、ポップさがあると今でも思うが、結局この先も流行ることはないだろう。
ここまで行き止まりにきても、病むこともなく、何よりも、自分を責めることを一切しない。
ただただ世の中が憎いだけである。

考えてみると俺の家系はそのタイプの人間ばかりで、とにかく誰一人、自分を責めるということをしない。
遺伝的に俺もその最たるものなんだと思う。

でもよく考えると、鬱的な病み方はしないものの、攻撃性や危険思想の方向に際限なく進んでいるので、広い意味では病んでいるといったほうが正しいんだろうか。

前にも書いたように、バイトをやめたり借金をしたり、そういうマイナスの行動はとらないものの、もはや極限まで来ていると思えるこの人生行き止まりが、この先どうなっていくのか、自分でも気になる。

2015年4月24日 人生行き止まり感と人生トンネル感 静かにしないといけない時期なのか

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このブログの最近の記事を見てもらえればわかると思うが、俺は今、完全に人生行き止まりである。
具体的な問題は色々あるが、偏って凝り固まった思考で雁字搦めになり、人生に楽しさを見出しにくくなっているというのが主だ。

ただ、人生には、何かを始めると失敗したり、何をやってもうまくいかなかったり、無理にやろうとすると最悪は死に至る危険があるような、
『静かにしないといけない時期』
というのがあると俺は考えている。

「行動しないのはただの怠けだろ」
という意見が飛び出しますが、現にここ数年の俺の経験を思い返すと間違いない。

バンドを組もうとして不愉快な目に合い捲くったりなど、大きく動かないほうが良い時期というのはある。

だが、当然そんな時期が死ぬまで続くわけではなく、いつかはうまくいきはじめる時期が来るんだとすると、今の状況は行き止まりというより、『トンネル』かなと。
死なずに人生が続いてる限りは、真っ暗なトンネルの中を進んで、いつかは出口に到達し、明るい景色の外へ出られると、そう考えたほうがいくらかポジティブな気がする。

出口に到達するために、何か行動して『進む』というのも必要だとは思うが、結局は時間の経過しかないような場合もあると思う。

何かをやらないということは、怠けとも捉えられるが、悪いこともしないと考えるとプラマイゼロだとも言える。

例えば、俺がこの行き止まりの状況でさらに、バイトをやめたり、借金をしたり、家族とモメたり、そういうマイナスの行動をし始めると、余計にひどい方向に行くことは間違いない。
だからとにかく、静かにし、今できることを淡々とやっていくしかない時期なのかもしれない。

2015年5月18日 人生ドロップアウトして10年 いい加減ふざけるのをやめる

俺の半生をまとめると、小6で教師に反抗し大暴れし、中1で学校に行かなくなり中3まで軽い鬱状態。

高1(1回目)は1年でやめ、高1(2回目、定時制)入学とともに一人暮らしとバイトを始め、人生が上向き始めてきた。
その頃に配信とお絵描きも始め、今までの鬱屈した気持ちを好き放題ネットで吐き出し、新鮮さと爽快感を味わい捲くっていた。

高認に合格し学校に行かなくなり、バイトをやめ、一人暮らしも1年でやめて実家に帰った。
それが17歳くらいの頃、そして週3のバイトをしつつ配信やお絵描きや音楽活動を続け、今に至る。

今年22歳なので、そう考えると俺はもう人生をドロップアウトして10年経つ。
そろそろ人生の半分以上をめちゃくちゃに過ごしていることになる。

さらに問題は、配信やお絵描きを始めたのが2010年10月なので、そろそろ5年経つということ。

最初はネットで気持ちを吐き出す心地よさに酔いしれ、気分が良かったので、暴言を吐いてもどこか可愛げがあったと自分でも思う。

しかし、徐々に、人とのトラブルが絶えなくなり、いよいよしんどくなり、怒りが憎しみに変わり、Twitterもやめ、お絵描きも音楽活動も休止し、こうやってブログで気持ちを書く程度になっている。

特に配信は、最初はゲーム配信をやり、人を楽しませようという気持ちが少しはあったものの、なにか、来た人間に肩透かしを食らわせてやろうと、いきなり音楽を流したりめちゃくちゃをしていた。

そして人とモメ、ゲーム配信もやめ、USTREAMは過疎り、ツイキャスに移行しガキにブチ切れ、理由もなくBANされ、最終的にはFC2で作業配信だけをするようになった。

しかし、相変わらず来た人間に対し
「コメントや!」
などと暴言を吐き、コメントがこない限り作業画面を映すこともなく、異常そのものだった。

ほぼ配信と一体だった音楽活動も、配信と同じようにめちゃくちゃにガヤを入れて暴れ、ストレスを発散するだけのものになっている。
お絵描きも同様、ストレス発散のものである。

これ以上続けても仕方がない

最近、もうそろそろ、ふざけ捲くるのはいいかな、と思い始めた。
この5年間、ネットを通じて、ストレス発散と自己顕示欲のためだけに、共感者、理解者を求め、人とモメ、傷つけ、やりたいようにやってきた。

もうこれだけやりつくしたから、満足したという感じがある。
というか、これ以上やり続けても同じことの繰り返しだ。

前の記事にも書いたが、そんな自分でいると、周りにもアホや変な奴しか集まらない。
それもいい加減、嫌になってきている。

ネットで大衆相手にルサンチマン塗れの暴言を吐き捲くっても結局は何の意味もない。
というかもう暴言を吐いてやる価値もないとすら思える。

生まれ変わるつもりはないが、せめて、ふざけない、馬鹿なことをしない、静かにする、という方向に変えていきたい。

禁煙と同じで、人間は何かをやめても、代わりにすることがないとまた始めてしまうという。

かといってリアルに重点を置こうにも、知り合いにもまともな奴はおらず、縁も切れている。
大学や専門学校へ行こうにも、結局は企業への就職のための場所であり、SNS漬けのバカガキだらけで辟易してまた退学するだろう。

なので、とりあえずバイトを続け、ふざけたことをしないという一点をまず守っていきたい。
なにかまともなことをするのは、それをしっかり守れてからでいいかと。

ただ、ブログの更新はするし、たまに楽曲製作やお絵描きもすると思う。

もういい加減憎しみはこりごりだし、馬鹿を相手にするのもこりごりだ。

2015年6月9日 苦労や苦痛を避けて生きている 苦しみがないと幸福も感じられないのか

俺は中1から不登校で、高校も2回退学しているフリーターだ。
なので、元からそういう生き方をしてると言えばそうなんだが、ここ数年、さらにそれが顕著になってきたなと思った。

例えば、リアルの知り合いと縁を切って一人ぼっちになったのも、簡単に言えば、怒りや憎しみという『苦痛』に耐えられないからという理由だ。
そして逃げ込んだ、ネットの配信も、最初はよかったものの、次第に人と揉め事が絶えなくなり、憎くて憎くて仕方ないという状態を何度も繰り返し、いい加減しんどくなり、やめてしまった。

学校や労働というリアルの世界の苦労や苦痛から逃げ出した。
ネットでも、怒りや憎しみという苦痛に耐えられず、新しい人間関係を構築できなくなってきている。

そもそも、俺ほどの人間嫌いが、配信という人間愛が必要な行為に手を出したのは大きな間違いだった。

苦労や苦痛を避けるというのは、いずれ苦労や苦痛につながる可能性のあることもしない、ということも含む。
例えば、人間関係を構築すれば、いずれモメたりして憎しみに変わるという可能性が多いにある。

苦しみがないと幸福も感じられないのか

俺にとって憎しみは、殺したいほど憎い相手を、法律やその後の自分の人生を考えて、殺したいという願望を叶えられない状態なので、相当な苦痛を覚える。

そうやって、苦労や苦痛を避けて生きていると、幸せな人生が訪れるのではなく、不幸でも幸福でもないような、退屈な人生になってきた。
例えば今は週3日しか働いてないので、週に4日は休んでることになるが、別にそれが幸せだと、毎日噛み締めることはない。

数年間、劣悪な環境で重労働をしてきた人間が、やっと退職し、それから週4日の休みがある仕事をするなら、毎日その幸せを噛み締められるだろう。
だが、俺なんか中1からだいたいそんな生活なので、それが普通になってしまっている。

仕事終わりの開放感や、運動のあとの休憩など、結局ある程度苦しみがないと幸福は感じられんのかなとも思う。

昔は、
「揉め事がなんじゃ、暴れたるんじゃ」
と、怒りや憎しみを苦にもせず、バイタリティに溢れていた気がするが、今はもうしんどい。
単純に、力がなくなってきてるとも言えるし、むやみに争いを起こさないように成長したともいえる。

一人暮らしをしながら、朝はバイト、昼は学校、暇な時間に配信やお絵描き、という生活をしていた頃は、ちょっとテンションがあがりすぎなくらい楽しく、なによりも充実感があった。

疲れと楽しみがいい具合のバランスであったからだと思う。

今は、新たに人間関係を構築することで、またつらいつらい憎しみが発生するのが怖い。

憎しみを発生させてしまう原因が自分にあるという自覚もあるし、人と健全な関係を維持できない自分に劣等感を覚え、自信をなくしてどこにも出られないと言い換えてもいいだろう。

ただ、別にこの状態から変わりたいわけじゃなく、相変わらず、苦労や苦痛を避けて好きなことだけをしていたいと思う。
犯罪を犯すのに比べれば、ひっそりと植物のように生きているくらい何の問題もないはずだ。

苦しみを味わわずに、好きなことをして幸福を感じる練習をすればいいかと。

憎しみなどの苦しみは別として、労働などにおける苦しみは、その苦しみによって上の人間が得をするというシステムがありそうなので、なんとしてでも避ける必要がある。

そういうところも踏まえて、自分が納得するような、苦しみと幸福の配分で生きていければいいんだが。

2016年5月15日 独我論という救い 自分が認識さえしなければ人も世界も存在しない

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独我論という考え方がある。

独我論(どくがろん、英: solipsismソリプシズム)は、哲学における認識論の見方の一つで、
自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけであり、それ以外のあらゆるものの存在やそれに関する知識・認識は信用できない、とする。

出典:独我論 – Wikipedia

独我論
1 心的状態を持つのは自分だけであり、他者とは私の心に現れる現象に過ぎないとする立場。
2 他人も心的状態を持っているかもしれないが、それを確かめる事はできないとする立場。
3 他人も心的状態を持っているとしても、その内容は私と違っているかもしれないという立場。
例えば私が赤いりんごを見ていたとしても、同じりんごを見ている他人にはそれが青く見えているかもしれないということで、これは逆転クオリアの思考実験として知られている。

出典:心の哲学まとめWiki – 独我論

つまり、
『存在していると確信できるのは自分自身が今認識している精神状態や感覚だけであり、それ以外の世界や他人の精神状態は存在しない』
『もし存在しているように感じたとしても、それはあくまで”仮”のものである』
ということだと俺は捉えている。

水槽の脳哲学的ゾンビクオリアの問題と同じで、今の哲学や科学では完全に否定することができない概念らしい。

普通に楽しく生活している人にとっては、あっそうというレベルの話かもしれない。
だが、俺のように、世の中が憎く、日々、現実から目をそらしたい人間からすると、この考え方にものすごく救われる。

認識さえしなければSNSのバカガキも存在しない

たとえば、ネットサーフィンをしていて、TwitterをはじめとするSNSのバカガキなどを見て、不愉快な感情に苛まれたとき、いつもこの考えが浮かぶ。

「俺がわざわざそんなページにアクセスして、見てしまったからこんな気持ちに苛まれるんだ」
「俺が認識さえしなければそんな連中は存在しないのと同じだ」
と考えるとすごく楽になる。

「今すぐこのページを閉じればこいつらは消える」と思いすぐにページを閉じ気分を変えられる。

前にも書いたが、俺とモメた奴らが俺と別れた先で何をしているのか、こちらに知る方法はない。
そうなると、そいつらはもはや存在していないのと同じであり、もっと言えば、
『相手はどこかで勝手に死んでいる』
と思ってしまってもいいことになる。
その可能性が1%でもある限り。

いやな事があって、昏々と眠り続けているときも、自分が寝ている限り世界は存在しないのと同じだと考えられる。

そういう風に、俺にとっては、何かから逃避するときにすごく役に立つ考え方である。
嫌なものは見たくないというわがままを正当化することができる。

究極的には、
「自分が死んでしまえばこの世界を終わらせることができる」
という考えにまで至ってしまう。

小学生のときなどに、
「自分が学校に行っている間は、自宅は存在しないんじゃないか」
「この世界は精巧に作られたゲームで、自分以外の人間はすべてロボットにようなもので、自分の行動によって反応を変えるようにプログラミングされてるだけなんじゃないのか」
などと考えたりしたが、20歳を超えても同じような考え方にすがっている。

しかもそれを哲学や科学で否定できないのも事実なのでたちが悪い。

ただ、いよいよ現実を見ないといけなくなったとき、見せつけられたときに、逃げてきたツケがきそうなのが問題である。

おまけ 気が楽になる(怠ける言い訳になる)考え方

・自分が認識してない世界は存在してないのと同じ。

・自分以外の生き物が、本当に何かを考えたり感じたりしてるかはわからない。

・認識できるのは現在だけであり、過去も未来も幻想。認識できるのは今この瞬間だけ。

・幸福も不幸も脳内物質によるもの。

・どれだけ頑張ってもいずれ死ぬ。頑張った人間も頑張らなかった人間も死ぬ。

・100年後には今生きている人類のほとんどが死んでいる。

外出して街を見渡すと寂しくて虚しくて疲弊するのでインドア(引きこもり)を極める

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この2ヶ月間は家に引きこもってブログ作業をしていた。
別にブログ作業をしてなくてもひきこもってるんだが、彼女と別れたことでさらに外出の理由がなくなり、3日に1回の買い出し以外ほとんど外に出ない生活だった。

さすがにやばいかなと思って先週の土曜日、1日乗車券を使った名古屋徘徊を行った。
昨年10月1日に神戸から名古屋に引っ越したが、ちゃんと見れてない場所が多かったので、それらを見たかったというのもある。

その日は色々あったが、結局思ったのは、
「外に出ると寂しい、虚しい、ろくなことがないので、今まで以上に家に引きこもってインドアを極めたい」
ということ。

外に出ると孤独を痛感し疲弊し切る。
そういった事に関しては今に始まったことじゃないし、2014年にこのブログを始めてから何度も言ってきたことだ。

とにかく、外に出るとあまりにも虚しくて寂しくて、独我論的な念慮が出る。

歩道を歩きながらマンションを見れば、
「この一部屋一部屋に人が住んでいて、家族があって、それぞれに人間関係があって……」
とか途方も無いことを考え疲弊する。

車の流れを見ると、
「この車に乗っている一人ひとりに仕事や暮らしがあって……」
「でも100年後は誰も生きてなくて忘れ去られてて……」
とか、中二病としか言いようがない独我論やら虚無主義が出てくる。

そんな事を考えていると次第に気が遠くなってくるので、最後は結局、
「それらもすべては俺の目に写っているだけの世界であり、すべて俺が作り出したもので、俺がそれらを見ていない間はそれらは存在していない」
などと独我論丸出しの結論で自分を慰める。

書いてて恥ずかしくなってきたが、現場にいる時なんかはもっと切実に、そう思っている。

哲学者ぶって、気取ってるとかではなく、どうしてもそういうことしか頭に浮かばない。
というより、自分を守るためには、そういう考えしかすがるものがなく、他に方法がないのである。

人混みの恐ろしさ

これは誰でもそうだと思うが、都会の人混みなんかに行くと、めちゃくちゃに疲れる。

楽しそうに人混みを歩いている人や、名駅などの超繁華街に定住しているであろう人を見ると、
「この人らはなんでこんなに元気なんだろう」
と思ってさらに疲れが増大した。

栄の駅では、性欲が人の皮をかぶったような、巨体の変質者が、かわいい女子高生に話しかけていた。
幸い襲われたりはしてなかったようだが、女子高生は見るからに怖がっていた。

度胸もなく喧嘩も弱い俺は何もしてやれなかったし、ひたすら、
「女に生まれただけで人生ハードモードだ、本当に災難だ……」
や、
「男の性欲が恐ろしくて仕方がない」
などの、ろくでもない念慮に苦しんだだけ。

名駅ビックカメラの地下一階のゲーセンに行ったら、もやしのようなオタクが、たぬき顔のかわいい彼女と一緒に太鼓の達人をやっていて、嫉妬で疲弊した。

4Fらへんのソフマップのエロゲコーナーに入ったら、障害者一歩手前みたいなオタクだらけで、pixivで俺の絵を見ている人らにもこういう人が結構いるのかなとか思って疲弊した。

この他にも書ききれないほど、街には『俺を疲弊させる出来事』が溢れている。

外は俺に何も与えてくれない

それらの念慮や疲弊に苦しんでいたのはもう何年も前からだが、今回の一日名古屋徘徊でとても大きな気づきがあった。

それは『外(街など)は、俺に何も与えてくれない』ということである。

これは村上龍氏のエッセイ『すべての男は消耗品である。』のどこかに出てきた、
『歌舞伎も能も狂言も雅楽も、オレに何も与えていない。
元気づけたりしてくれなかった。
(だから、それら伝統文化に価値を感じない、と続く)』
を読んでから浮かんできた。

結局、都会や繁華街や、そこにいる人たちや、建物や、風景は、俺に何も与えてくれていない。
俺を癒そうともしてくれないし、それどころか、上述のように俺をどこまでも疲れさせてくるだけだ。

「独我論を信じてるなら、お前の言う外での苦しみすら自分が作ったものだろ?」
という反論が飛び出してくるが、そんなことは知らん。

とにかく外が俺を疲弊させていると感じるんだからどうしようもない。

それでも俺が今まで外出をしていたのは、
「少しは外に出ないと、本当に腐ってしまう」
と思っていたからだ。

でもそれは間違いだった。
外に出たら、余計腐る。
上に散々書いたように、疲弊し切る。

今まで俺は、外出することに僅かな希望を感じていた。
外の空気を浴びて、太陽を浴びて、外の人と接すれば、癒やしがあると思っていた。

実際は、癒やし以上に、俺を疲れさせるものがあまりにも多すぎる。
まぁ空気や太陽くらいは確かに俺を癒やしてくれるが、明らかに、デメリットがメリットを上回ってしまっている。

今回わかったのは、もう外に出る必要はないということ。
もちろん買い出しや区役所など、必要不可欠な外出や、たま~に近くを散歩したりするくらいならいい。
無理して電車に乗って街を見て回ったり、遠くへ行ったりする必要はないこと。

国内海外問わず、色々旅行に行ってみたいとも思っていたが、それも幻想だった。
そもそも旅行に行ったところで、この世のすべてを見れるわけではない。
重い荷物を持って疲れ、お絵かきやブログ執筆なども、作業環境が変わってはかどらず、落ち着かない。

どこにも住んでも同じ

そういったところから、『どこに住んでも同じ』なのではないかと思い始めた。
どうせほとんどの時間を家に引きこもるなら、住む街なんかどこでもいいのである。

コンビニやスーパーやカラオケが近くにありさえすれば、後は部屋の中でブログ作業やお絵描きや音楽をやって過ごせばいい。
田舎に住もうが都市に住もうが関係がない。

だが上述の、人混みの疲れから、どちらかというと田舎に住みたくなってきた。
村八分とかがあるようなど田舎じゃなく、ワンルームマンションがない程度の田舎。
そういうところでまったり暮らしたい。
(今住んでるところも、名古屋ではあるもののベッドルーム的な場所で落ちついているので好きだが。)

そういえば神戸に住んでいる時は、
「生まれ育った、見慣れた街のあちこちに、リアルの知り合いとのゴミみたいな思い出が張り付いているから、早くこの街を出たい」
と嘆いていた。

まぁそれは事実なので、やはり神戸には二度と住みたくない。
思い出が張り付いているどころか、現在進行系で、友達自慢野郎のようなゴミが、地元の居酒屋などを牛耳っているんだろうし吐き気がする。

超インドア派な彼女が欲しい

結論としては、俺は今後の人生でインドアを極める。
もともと極まっているように見えるかもしれないが、それどころではない。

可能な限り家に引きこもって、ブログやお絵描きや映画や音楽や読書を楽しみまくる。

今、かなり彼女がほしいと思っているが、次の彼女は俺と同じくらい徹底的にひきこもれる超インドア派が良い。
外に出たってろくなことはない、という価値観が合致しているなら、他にも色々合致する価値観があるはず。

そういえば、セックスとかエロいことも、青姦好きとかでないかぎり、かなりインドアな行為だ。
エロいことが好きすぎるのも含めて、俺は超絶インドア派なので、今後の人生でも、アウトドアは一切やらずインドアを極め抜く。

キャンプやBBQやダイビングなどの、アウトドアなんて、今までの人生でやりたいと思ったことすらない。
虫も苦手だし色々危険だ。
結局のところ、安確なんである。

まとめ

ここまで書いたのを見返すと、まるで隠居しようとしている老人だ。
なんというか俺は、物理的にも精神的にも外部との接触を絶ちたい、『真の引きこもり』なんだろうなと思う。

部屋から一歩も出れないような引きこもりよりはマシに見えるが、この、
『自分の世界(価値観なども含む)を守り抜くことへの執着心』

『自分の領域を侵されることへの恐怖心』
は、病的だ。

最近は野菜やタマゴなどの生鮮まで宅急便で届けてくれるサービスがあるらしいが、上述のように家から一歩も出られないというわけではないので、さすがにそこまでは必要ない。
3日に1回くらいは買い出しに行って、太陽の光を浴びて、外の空気を吸ってもいい。

まぁそんな感じで、とりあえず次の彼女は徹底したインドア派の人がいい。
いや、たま~になら外でのデートもいいが、人混みだけは頑なに行きたくないので、その点で合致する人を探す。

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