発声訓練をやっている人間は全員が必ず究極の声を目指さないといけないのか 目標に優劣はない

一つ前の、『取り急ぎ現段階で出せる理想の声を出すための発声練習』について書いた記事に関連して、ここ最近よく考えてたことがあるので書く。

最近発声訓練界隈や指導者を見てると、
『発声訓練をやるからには、『究極の声』『究極の目標』を目指さなければならない』
という風潮(論調?)があるように思う。

なぜそんなことを強制させられなければならないのか。
もちろん直接言ってこられたわけではないが『実践者であるなら』という圧力を感じるということ。

この話は、声に限らず、人生における『目標』というものすべてに言える。

『究極の声』とは?

まず『究極の声』の定義だが、某宗教的発声訓練の指導者曰く、人の魂や地球を変容させる?レベルや、言語獲得以前の古代人レベル、ということらしい。

俺からすると『究極の声』というか、『声を用いた活動の中で究極的なもの』をイメージしろと言われると、日本人なら、
『世界で通用する、前代未聞の史上最強レベルのボーカリストになる』
とかだろうか。

正直『究極の声』の定義はさほど問題ではないと思っている。
そういったとてつもない声は現に存在するんだろうし、発声訓練者がそれを目指すのも全く構わないと思う。

言いたいのは、
「そういったレベルの『究極の声』を目指していない人が後ろめたくなる必要はないんじゃないか」
ということ。

目標に優劣はない

そもそも、人によって『究極の声』や『声を用いた活動の中で究極的なもの』はそれぞれ違ってていいはずだ。

例えば、
『全く高音が出ない、裏声さえ出ない男性が、粉雪を歌えるようになる。』
『その状態で、みんなでカラオケを楽しめるようになる。』

その人にとってそれが『究極の声』または『声を用いた活動の中で究極的なもの』なら、それでいいと思う。
達成するのに何十年かかったって構わない。

その目標も、『世界で通用する、前代未聞の史上最強レベルのボーカリストになる』『魂や地球を変容させる声を出す』などの目標も、どちらも当人にとっては『究極の声』であり、どちらが優れているとかはない。
これは声に限らず、目標や願望についていつも考えることだが、目標や願望は『他人と比較は一切できない』ということ。

例えば、
『足が不自由な人が一人暮らしをできるようになる』
とか
『義足の人が100mを○○秒で走り切る』
というのもすべて『究極の目標』であり、他人や世界と比べても何の意味もない。

発声訓練における『究極』への押しつけは、上記の例えで言うと、
『どんな人間も必ず一人暮らしできるようになりましょう』
『どんな人間も必ず100mは○○秒で走りきりましょう』
というめちゃくちゃな話に聞こえる。

俺の『究極の声』

俺の声の目標、つまり『究極の声』『声を用いた活動の中で究極的なもの』は、
『スピッツ(またはスピッツと似たコンセプトの楽曲)の楽曲を(一般的美観における)きれいな声でいつでも楽に安定して楽しく弾き語りできて、nanaに投稿して、良いと思った人に拍手やコメントをしてもらう』
というものである。

決して、ライブハウスで活動するとか、プロの歌手になるとかではない。
(もちろん、今の目標を達成すれば、次の目標を設定したくなると思うが、現時点では考えていない、ということ。)

他人にどれだけ矮小と思われようが、俺にとっては究極なのである。

今までずっと軽い声を出したくても出せずにいて、呼気圧迫で誤魔化してきた俺からすると、
「軽い声でスピッツが歌えた、それを一般の人が聴いて楽しんでくれた、交流できた」
それだけで感無量なんである。

目標に対する文句

それに対して、
「それが究極?」
「上には上がいるよ」
「一般人の耳騙して楽しい?」
とか言う人間が一定数存在するようで、どうしても気になったのでこの記事を書いて考えを整理しているという感じ。
ほんとに、音楽をやってる人間は攻撃的すぎる(詳しくは関連記事参照)。

上には上がいるとか、どうでもいいんである。
自分が歌いたいから歌っているだけであって、誰かにマウンティングをとりたいわけでもない。
誰かの上になりたいわけでもない。

強いて言うなら、
「軽い声で楽に歌えず苦しんでいた『過去の自分』に、報われた、と思って欲しい」
という感じ。

つまり、自分のために歌っているのであり、自分の価値基準のみを信用しているのであり、他人と一切比較していないんである。

一般人の耳騙して楽しい?というのもひどい話だ。
確かに世間の過半数は発声訓練に興味がない故に、精密な耳を持っていない。
だから世間の過半数の人間の『歌の上手い下手、声の良い悪いを判断する能力』はガバガバだ。
小手先で『うまげ』な感じを出すだけでちやほやされるかもしれない。

でも、それの何が悪いんだろうか。

誰かが歌いたい歌を歌い、ネットなどに投稿し、それを、耳がどうだろうが、聴いた人が、良いなと思った、楽しいと思った、賞賛したいと思った、それでいいじゃないか。
なおかつ、それら(一般人の耳レベル)をわかっている歌い手なら、一般人の評価によっていちいち天狗になることもないはずだ。

いずれ混合がひどくなって声が出なくなる?

『棒ほど願って針ほど叶う』ということわざもあるし、目標は怖いくらいでかいほうがいいのかもしれない。
だが、怖い思いなんてしたくないので、『今』やりたいこと、出したい声こそが『究極の目標』なんである。

「目標をでっかくしないと、いずれ混合して声が出なくなる」
という意見もある。

実際、今、世に出ている歌手のほとんどは、日本や世界かかわらず、晩年にはほぼ必ず声が劣化していっている。
そのせいでまともに活動できなくなっている人もいる。

発声訓練をしてプロになった人もいるが、バンドのボーカリストなんかはほぼみんな独学というか、『憧れのボーカリストの真似をしたらプロ並になれた』というのが多い。
だから発声に関しての知識がなく、感覚に頼っているので、いずれ混合が激しくなり、晩年にはどうしても声が劣化してくる。

それは目標が小さい人もたぶん同じで、
『大した声を目指していない人は、晩年さらに大した声じゃなくなってくる。』
ということ。

しかし、それでもいいじゃないかと最近は思う。

晩年に声がでなくなろうが、若いときや全盛期の時に残した楽曲の音源やライブ音源は永久に残る。
若いときや全盛期の時に、最高の声で歌って観客を感動させ、希望を与えてきた、それでいいじゃないか。

過去の栄光という見方もできるが、そもそも普通はそんなことさえも出来ないと考えると、十分じゃないか。
(そもそも、発声訓練をやっている人間のどのくらいがプロ歌手になれるというんだろうか。)

「いずれ混合して声がでなくなろうがなんぼのもんだ、俺はいまとにかく軽い声が出したいんじゃ」
という気持ちだ。

俺はこの、『表現したくてたまらない』というエネルギーがないと、特に楽曲制作、作詞作曲なんかできっこないと思っている。

晩年まで綿密に想定して計画することでうまくいく人もいるのだろうが、少なくとも俺は
「今、こうやって歌いたいんじゃ!」
というがむしゃらなエネルギーが好きであり、美しさを感じるんである。

発声訓練をしていない人のほうが自由にやっている

考えてみると、上述のようなことに囚われている時点で愚かだ。

nanaを見てまわっていると、発声訓練なんかしたこともない人が、楽しく好きな曲を(一般的に見て)うまく歌い、そしてみんなを楽しませ評価されている。
最初からそこそこの発声や歌唱できる人にはそれが普通であり、『究極の声』がどうとか気にしてないだろう。
ただ楽しいからやっている。

最初は俺も好きに曲を作り、感覚に頼って好きに歌って楽しんでいた。

だが、軽い声を出したいという欲求は常にあり、そのために発声訓練という『ツール』に頼ることにした。
それによって間違いなく救われはじめたが、上述のような呪縛も生まれた。

俺のように、軽い声がどうしても出せなかった人には、発声訓練という『ツール』がどうしても必要だった。
それも、フースラーメソードという特に強力なツールが。

発声訓練をやっているからには究極の声を目指せという論調には、
『フースラーメソードなどの、今の所限りなく正確な、強力なツールを用いているなら、なぜ究極を目指さない』
という気持ちもあると思う。

繰り返すが、俺は『俺の中の究極』は十分目指している。
『他人』や『世界』と比べてどうかなんてどうでもいい。

あえて他人と比較するなら俺は、
『『フースラーメソードという強力なツール』を使っても、やっとこのレベル』
なんである。

そして、それでいいんである。

自分の目標さえあれば他人はどうでもいい

俺がなぜここまで、『他人の目標にいちゃもんをつける人間』にむかつくかというと、言うまでもないが自分の中にそういう人間がいるからだ。

その証拠として俺は少し前まで、発声訓練界隈の人たちを見渡しては、
「せっかくフースラーやってるのに、なんで、歌がうまい一般人以下の人だらけなんだ」
とか思っていた。

今はそれもどうでもいい。

他人の歌のうまさなんかどうでもいいし、それが当人にとって究極なら、それでいいんである。
俺にとって必要な声や好きな声じゃないならその人やその人の声には関わらないし、もし俺にとって必要な声や好きな声なら関わりたい、聴いていたい、それだけの話。
俺が関わろうがどうだろうが、その人の声が必要だと思った人はその人に集まるだろう。

結局、良い意味で自分のことで必死になれば、他人なんかどうでもいいということが言いたい。

まとめ

発声訓練に限らず、音楽をやっている人は、とにかく攻撃的な人が多いです。
歌の巧さ、発声レベル、持ってる機材、ギターの数、などしょうもないことまで持ち出して、なんとか人に優越しようとする。

歌、演劇などは特に凄みがある世界だと思う。

音楽をやる時点で、いやでも『音楽をやる人間』という共同体に属すことにはなってしまうが、この記事で書いたような、人の目標にいちゃもんをつけたりマウンティングしてくる人間は徹底的に無視していく。
そして、自分が思う『究極の声』という目標や、好きな声の人、(自分が思う)美しい声の人にのみフォーカスしていく。

好きで音楽を作って歌っていた頃は自然とそうしていたし、これからまたそうすることが、今の目標を達成するなによりの近道になるはずだ。

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