すべての男は消耗品である。VOL.6 1998年10月~2001年3月 衰退期へ 著者:村上龍 書評、レビュー(感想)

VOL.5に続き、『すべての男は消耗品である。VOL.6: 1998年10月~2001年3月 衰退期へ』を読んだ。

今回は経済の難しい話が多かったが、共同体、個人、言葉に関する話は、読んでいて改めて納得した。

個人的な評価は★★★★☆

本音と建前と装い者

本音で接するというのは相手に誠実に接するという意味ではなく、自分の利益となることを正直に伝えるということだ。
したがって、本音には必ず甘えが含まれているし、本音の中には差別意識などが隠されていることが多い。

本音と建前という区別は、自分の、あるいは自分が属する集団の利益を隠すか隠さないかという違いがあるだけで、本質的に両者は同じものだ。

本音を言ってくれ、というのは、率直に話してくれという意味ではなく、正直にあなたの利益を示してくれ、ということだ。
したがって、利益が明らかになるという意味で本音というものは必ず醜い。

同様に、建前というのは、自分とその集団の利益を隠して一般論を語るということだ。
したがってそれは嘘で、本質的に建前も醜いものであり、ときには有害なものになる。

昨年くらい俺は、自分を偽って建前ばかりを言い、人を欺き利益を得ようとする『装い者』にブチ切れまくっていた。
少し前にこの文で書いてあるようなことに俺も気づいて、装い者がどうでもよくなった。

装い者にしてもそうでない人にしても、本音は自分の利益がさらけ出すことだから醜いし、建前は利益を隠蔽するから醜い。
本音だろうが建前だろうがどっちにしろ醜いし、そいつ自身が憎いんだから、何が本音なのか暴こうとしたりしてみても意味がない。

ほっておく、関わらない、ということに尽きる。

言葉

語源にはほとんど意味がない。
都合がいいようにニュアンスが変化するのが日本語の特徴だからだ。

ついでに言えば、日本語そのものにご都合主義の責任があるわけではない。
使う人間がご都合主義だから言葉が過分なニュアンスを背負い込んでしまうだけである。

某自己啓発界隈の用語に憤慨してた頃も同じようなことを思った。

どんな言葉(用語)を使うかによって所属している界隈(コミュニティ)がわかり他人に自分を定義される
俺はこれまでの人生の中でとにかく、『コミュニティ(共同体)』というものに執着してきた。 何年も前から、 「他人のコミュニティに帰属し...

結局言葉も使い手次第だ。

フリーターという言葉もあっという間に流通し、定着した。
学校を出ても就職しない若者は、フリーターという言葉によってカテゴライズされ安心感を得た。
フリーターという言葉は、人生の猶予期間が欲しい若者にとって利益のあるものだった。

また、若年層の失業の増加による社会不安を恐れる大人たちにとってもフリーターという言葉は問題を曖昧にできるので利益があった。
幅広く利益が生じる言葉はメディアによってあっという間に定着する。 
その言葉の定着によって生じる将来的なコストなど誰も考えていない。

いずれほとんどのフリーターには未来などないことが明らかになるだろう。

やがて彼らは裏切られたと思うだろうが、その頃にはまた都合のいい言葉が流通していることだろう。

事実はそうやって永遠に隠蔽されていくのである。

俺はフリーターではないが、不安定な事業をやっている時点でフリーターのようなものなので、この文章を読んで焦った。
個人事業主という言葉も正直どうなのかと思い始めた。

言葉遊びは神経症の始まり

理解している、この現実をわたしは理解している、わたしが理解できていないということも理解している、わたしが理解できていないということをわたしが理解しているということを理解している、というふうに、まるでデフレスパイラルで、神経症はそうやって始まる。

ではどうすればいいのか。

何かを消費するのだ。
スパイラル状に整然と下方へ落下していく意識のエネルギーを別の方向へと解放すること。
めまいを感じる何か別のことを、探すのではなく、実感すること。

セックスも有効だ。
だから今の日本はセックスの花盛りだ。
寂しいからと、誰もがテレクラその他で知り合い簡単にセックスしている。

言葉遊びは神経症の始まりと考えると面白い。
ラーキルアのような思春期葛藤の10代もそうだが、やはり言葉遊びのスパイラルに陥ることはあるんだなと。

俺も最近までそういうことがあったが、スパイラルにはまりそうだなと思ったらすぐに思考を止めて別のことをやり始めるようにしている。
それは『逃げ』でもなんでもないとわかったので。
そういった『論理』に振り回されている時は、振り回されていて何が楽しいのか『感情』にフォーカスしてみると、さっさと別のことをやり始めたほうが良いとわかる。

個人

自分にとって個人的に興味のあることを探し、その分野で努力を続けて成功を目指すことはこの国ではあまり歓迎されない。
そういう人間が増えると困ることがあったのだろう。

この国においては、時代が求めるものはもちろん常にいかがわしい。
時代が求めるものが、リスクを負った個人に任された歴史がまだないからだ。

個人でリスクを取りそれを経済的な成功に結びつける人はこれまで疎まれてきた。
これまで何度も書いてきたようにそもそも個人という概念が希薄だった。
個人という言葉そのものが、集団から疎外され、集団と対立するものとして初めて浮かび上がってくるものなのだ。

実は、自分で個人的に何かを好きになるのは簡単ではない。

~が好き、とわたしたちは1日に何度も言う。
だが、カレーライスとか缶コーヒーのレベルではなく、生きていくために必要な何か、職業とする技術や知識、学問などの場合、それらの対象を好きになるのは簡単ではないような気がする。

個人という概念が未発達の国では、そういった対象が見つかった瞬間に孤独になってしまうからだ。
個人の概念が未発達な国では、個人というのは集団から疎外されることによって際立つ。

日本においては、個人とは集団から阻害されることで浮かび上がってくるもの、だとすると個人という存在は本当にネガティブなものなんだなと思う。
少数派が弾圧されるとか、出る杭は打たれるとか散々言われるが、そういうことなんだなと。

共同体

教育問題を語るとき、偏差値の高い私立に通っている高所得者層の子どもと、公立の商業高校や工業高校に通う低所得者層の子どもでは、ひょっとしたら対策が異なるかも知れないのに、そういった区別はタブーだ。

わたしたちの社会では問題を個別に限定することがむずかしい。
問題・トラブルはすべて「みんなの問題」でなくてはいけないのだ。

わたしたちの社会は何よりも一体感の喪失を恐れている。
率直な意見や指摘は、場合によっては一体感を失わせる。
一体感を高めるものが善で、一体感を失わせる恐れのあるものはタブーになる。

そもそものきっかけ、さえあれば誰だって成功できるし、誰だってすてきな人とつき合うことができる、というアナウンスは、突出した個人などいないのだ、という安心感を与えてくれる。

インタビューなどでは、そもそものきっかけのあとに、他人とうまくやっていくときの「苦労」があり、ものごとをうまく処理する「秘訣」があって、最後に「みなさんのおかげです」というだめ押しがあれば文句なしだ。

地下鉄サリン事件にしても、阪神・淡路大地震にしても、最近の少年犯罪にしても、被害者は共同体全体の結束を高める存在として祭り上げられてしまう。

被害者は「共同体の敵」による被害者として、共同体の一体感を高めるために祭り上げられる必要がある。

徹底的に共同体に属さない人生を送ってきた俺だが、やはりこの文章を読んでみても、共同体というのは醜いと思ってしまう。
まぁ作者が作家だからというのもあるだろうが、『個人』という側面が強い人は多かれ少なかれ共同体というものに憎しみを抱いているように思う。

不安に対処するためには、プライバシーが守られる安全な空間と時間が必要だ。
世間が充分に機能する社会にはプライバシーがない。
周囲は全部知人で、秘密を持つことは原則的に禁止されている。
独りぼっちになることもないが、他人との距離もない。

そしてそういった社会では、甘えることが美徳となる。
個人と個人が、また個人と共同体が甘え合うことで信頼関係を確認する。
甘えない個人は嫌われる。

宴席などでは個人間の距離は無視される。
酒が入った場合など、無礼なほうが、開放的な奴だということで好かれたりする。
その宴会の出席者全員が仲間だという強制的な雰囲気が出来上がってしまう。
宴会の上座に座った人が冗談を言うと、一斉に笑い声が起こる。
そういう宴席でも弱いものは犠牲になる。

女性は、聞かれたくないことを聞かれることが多い。
彼氏はいないの?と上司が質問して、無視すれば、それは共同体への敵対行為になる。

そういった場所では個人の不安は無視される。
すなわち不安を持っている個人はそれだけで共同体に敵対していることになる。

共同体について考えれば考えるほど病的な感じがする。
職場の飲み会にしても安確いじりにしても、耐えられなかった俺のほうが正しいと思った。

このあと、

構成員の不安を解消するというのは共同体の存在理由の一つなので、個人的な不安を抱えていることがわかるとそれだけで共同体から疎んじられる。

「世間」が代表する日本の共同体は、個人の不安に対応できない。
世間の成員として受け入れられていながら不安を抱えることなどあり得ないからだ。

現在そういった「世間」はどこを探しても存在しない。
その成員になりさえすれば、不安が自然になくなるような共同体はどこにもない。

と続くが、その意味はよくわからなかった。
つまり現在は、不安を解消してくれる共同体もなく、個人で不安に向き合うしかないから、さらに絶望的という意味だろうか。

努力と苦労

努力はしたが苦労なんかまったくしていない、というような醒めたコメントは共同体の反感を買う。
そういったコメントには、自分は自分の人生を選び取ったのだから苦労なんかするわけがない、というニュアンスが含まれている。

努力も苦労も『苦しみ』という意味では共通だと思うが、努力は自分で選び取ったものに対して責任を持ってやる苦しみ、苦労は他人になにかを強いられやらされることの苦しみという感じがある。
そういう意味で、俺も苦労をしたことはほとんどない。
努力は積極的にしていきたい。

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睡眠と雇われ

昔から睡眠だけは充分にとるようにしてきた。
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作家になったのは寝坊ができるからだと言ってきたが、それはジョークではない。
わたしは本当に寝るのが好きだし、もうちょっと寝ていたいという欲求を阻害されると、機嫌が悪くなる。

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どうして多くの人はその欲求を手放してしまうのだろうか。

それは生きていくため、つまり何らかの手段で生活の糧を得るためだと思う。
充分な睡眠をとるのが嫌いだから、という理由で早起きする人はきっと少ないのではないだろうか。

わたしはやはり早起きが嫌いだ。
ベッドの中でぐずぐずしたり、うとうとと微睡んだり、夢を反芻したりするほうが好きだ。

村上龍氏がそれほどまでに睡眠が好きで、執着しているとは知らなかった。

俺もとにかく物心ついた頃から睡眠を重要視していて、十分に睡眠が取れないと生活ができない。
睡眠不足の状態だとものすごく気分が悪かったり、沈んだりして、バイトにさえもいけないという感じ。

まぁそれも程度の問題で、
週3日程度のバイトなら、多少睡眠を削られても、まだ耐えられる。

サラリーマンのように週5~6日そうなってくると絶対に耐えられない。
だから雇われで働くのは絶対に無理だ。

わたしは小説家として成功しなくても後悔はしなかっただろう。
それは早起きと通勤電車には耐えられないと、自分で把握できていたからだ。
サラリーマンとして出世した人を羨ましいとも思わなかっただろう。
通勤電車に耐えられる人を羨ましいとは思わない。

自分は早起きが好きか。
通勤電車が好きか。
他人にこき使われることが好きか。
そう自問するのは無駄なことではないのだ。

なんかこの文章を読んで物凄く安心した。
俺に都合の良いことだから安心するのは当然なんだが。

俺は満員電車は結構嫌いではないのだが、睡眠を削られるのと、他人にこき使われるのは耐えられない。
その二つを阻害されるくらいなら、フリーターでも親のスネカジリでも良いと思っている。
特に、睡眠を阻害されるのだけは何が何でも絶対に耐えられない。

その二つの優先度が、労働や世間体に勝っている。

ここまでの確信と意地を持って、働かないという選択をするなら、未来の俺も、現在の俺を責めたりしない気がする。

歳をとると下腹を中心に筋肉も皮膚も当然弛んでくる。
ジムでマシンを使って筋肉を引き締めることが必要なのだろうか。
わたしはそういうことにまったく興味がない。
こういうことではいけないのだろうと思ったりもするが、面倒臭いのでやらない。

潔くてワロタ。
老化に必死で抗うのもかえって醜いと捉えることもできるし、俺も多分老化しても何もしないんじゃないだろうか。

その他

内面に隠しているものがあるから告白がなされるのではなく、告白という制度が隠すべきものを作り出す。
(柄谷行人『日本近代文学の起源』1980年)。
したがって、告白は常に自己否定的だ。
自分を肯定する告白でも、必ず自己否定から出発しなければいけない。

目からウロコ。

SMクラブにいる女の子の特徴は、自己評価が低い、ということだ。
程度の差はあっても子ども時代に何らかの傷を負っている女の子が多い。
幼児虐待というようなシリアスな傷もある。
その傷がシリアスであればあるほど、自己評価はより低くなり、最悪の場合にはSM以外では他人とまったくコミュニケーションが取れないというような女の子もいる。

女性の自己評価の低さによる問題は気になる。
自己評価の低い女性は、クズ男にされるがままになるケースが本当に多いので。
そういう関係を見たり、話をきいたりすると本当に最悪な気持ちになる。

不安がない人は危機感を持つことができない。
危機感は好奇心と結びついて、ときにその個人にとって重要な行動を起こす原動力になる。

以前、『強烈な焦りや後悔への恐怖は行動を促進させる』という記事を書いたが結構正しかったのかなと思った。

サッカーにおいてゴールは常に奇跡だ。
その奇跡は、ある選手の突出したプレーやあるいは信じられないようなミスやまた神が演出したとしか思えないような偶然によって生まれる。
だからサッカーを見る人は奇跡を見に行くのだ。
奇跡の成立過程を見ると言ってもいい。
奇跡の成立する過程が、歴史であり物語なのである。

それは非常に論理的であって、しかも論理を越えたものでもある。
整然と準備されたカオス、のようなものだ。

俺は野球やサッカーなどのスポーツをやるのも見るのも好きじゃなかったが、この話を読んでサッカー観戦には少し興味が出た。

厚底のブーツを履いて、ルーブルで転んでもそれは本人の勝手だからわたしにとってはどうでもいいことだ。

東大卒の中高年のサラリーマンがリストラされて自殺したりしているのに、大学受験でも高校受験でも中学受験でもなく、幼稚園の受験で人生が決定されてしまったと勘違いして殺人を犯すという神経は特殊すぎて反応する必要がないと思った。

校外で起こっていることはコントロールできないという常識が学校にはある。
中学生や高校生に麻薬を売る組織のアジトに潜入する教師の話は漫画以外では聞いたことがない。

そしてそれは、
「ホームレスを襲っても結局、何も利益はない」
という合理性を教えることに比べて、どの程度有効なのだろうか。

コンサートでも、演奏が始まると一斉に立ち上がって踊り出したりするわけではない。

他の著者の本を読んでるときもそうだが、なんかこういう『当たり前』のことを淡々と書いている文章に笑ってしまう。

当たり前のことだが、不要なものは自然になくなっていく。
今の日本に希望がないのならばそれはきっと不要になってしまったのだ。

よく引用されている一文だが好き。

まとめ

経済の難しい話が多かったものの、今回もかなり学びを得られた。

なんか村上龍氏の考えには同意できすぎて、また俺は自分の殻に都合のいい情報を得て殻を肥大化させているのだなとも思ってしまった。
楽しいからいいんだが。

それにしても、引用を多用して書評することが増えすぎた。
エッセイの書評は今後もそうしていこうと思うが、読みながら逐一コピペするのはけっこう大変だ。

とりあえずVOL.7を読むのは少しおいといて、ハルヒなどの積読を読もうと思う。


すべての男は消耗品である。VOL.6: 1998年10月~2001年3月 衰退期へ

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本 タイトルをクリックすると書評記事に飛べます。 2019/01/13 ★★☆☆☆ 幸せを引き寄せる 新解・数秘術 2019/0...

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