あらゆる声を出せる必要も、あらゆる絵を描ける必要もない 専門バカでいい

最近タイトルのようなことを強く思う。

これまで某発声訓練の影響もあって、
『あらゆる声を出せるようになるべき』
『あらゆる人格を演じられるようになるべき、そうでない人は苦しんでいる』
とか思っていたが、そうとも限らない。

『これしかできない、これができなくなったら崩壊してしまう』
というような、自在性の低い、リスクヘッジの弱い、
『専門バカ』
でも十分良いということもある、と思う。

遺伝と特性と向き不向き

野口晴哉氏の『体癖』論を学んでいると、人によって『向き不向き』は大きく違うということがよくわかってきた。
しかもそれは『生まれつき』であることも、腑に落ちてきた。

某発声訓練の影響で冒頭のようなことを思ってきて、さらに某自己啓発の影響からか、
『遺伝なんか関係ない。幼少期の家庭環境や重要人物によって人格も才能も形成される』
『人には無限の可能性がある』
『自分が本当にやりたいことなら努力次第でなんでもできる』
とか思っていたが、はっきり言ってそうではない。

遺伝や、生まれついての才能というものは確かにある。
そんな気は当然、ずっとしていたが、体癖論で『生まれついての骨格の違い』を学んだことで確信した。

育ちなど関係なく人には『向き不向き』があり、その時点で『無限の可能性』なんか無い。
だが、それでいいんである。

その人が生まれ持った骨格を正しく活かし、向いたことを極め、世の中に役割を果たせばいいんである。

つまり、『持ち味を活かす』ということ。

無限の可能性なんて必要ない

むしろ、『無限の可能性』なんてあったら恐ろしい。

まるでなにもない、秩序もルールもない、だだっ広い野原に一人放り出されて、
「何かをやれ」
と言われているような気分になる。

スポーツでも何でもそうだが、ルール(制約)があるから、その限られた中でなにかしようと思える。
言い換えると『選択肢が減る』ということだが、それが重要。

世界中の料理を何でも食べていいと言われて、何万種類の選択肢を並べ立てられたら、決められない。
何かを選択するには、絞っていく必要がある。
生き方を選択するのも同様。

だから『無限の可能性』なんていうのは、そもそも必要ない。

そんなものより、
『持ち味』
『生まれ持った骨格』
『向いていること』
ということをやりきることのほうが重要だ。

人はそのために生まれてきたとすら思える。

歌手、画家、農家、医者

人の声には無限の可能性があるとこれまで書いてきたが、仮にあったとして、結局なんの歌手になりたいんだろうか。

『なんでも歌える歌手』だろうか?

世界中の歌手を見てみても、
『ブルースシンガー兼演歌歌手』
とか
『声楽家兼浪曲歌手』
なんてあまり見ない。

いることにはいるのだろうが、少なくとも俺はそういう人に惹かれない。

「なんでもできる」
を押し出してて鼻につくし、ほぼ間違いなくそういう人は、
『意外性』『ギャップアピール』
をしたいだけの、
『何もかも中途半端』『下手の横好き』『器用貧乏』
であることが多い。

B.B.キングが演歌を歌う(歌える)だろうか?
演歌歌手がラップを歌う(歌える)だろうか?
仮に歌えたとして、何になるんだろうか?

確かにB.B.キングが演歌的な歌い方がうまかったら、おおーとなるかもしれない。

またはブルース歌唱のままで演歌を歌ったら、
「これはこれでいいな」
となるかもしれない。

だがそれはすべて、
『B.B.キングがブルースのプロ』
という、一つ最高のジャンルを持ってるから成立することだ。

最初から『何でも歌える歌手』を目指しても、ちょっとした面白い歌手にしかならないだろう。
別の記事に書くが、閉じられた共同体の中でのみ褒められ、馴れ合うだけの『趣味的』な歌手になる可能性が高い。
つまりなにか一つのジャンルを極めた『プロ』にはなれない場合が多いだろう。

俺が言いたいのは、
『一つの道を極めるべき』
ということ。

お絵かきも同様。
ゴルゴ13のさいとう・たかを氏が萌え系の絵をめちゃくちゃうまかったとして、それでなにになるんだろうか?
反応は、上述のB.B.キングのと同じものだろう。

そしてなにより、そうやって色々やって、CDまたは漫画本を出版して売れるだろうか?
または売れなくても、人の心を打つだろうか?

少なくとも俺は好きじゃない。

農家に例えると、キャベツ農家はキャベツだけ作っていればよくて、玉ねぎやじゃがいもや人参は、それぞれの専門の農家に任せればいいんである。

『自分に向いてないことは、向いている人に任せる』
でいいんである。

医者で例えると、外科医が歯科医を兼業したり、耳鼻科医が泌尿器科医を兼業する必要があるだろうか?
基本的には俺はそんな『中途半端』な医者にはかかりたくないと思う。

『それ』と『それ以外』

仏教の縁起的に言えば、
『『それ』を学ぶには『それ以外』を学ぶ必要がある』
というのはわかる。

だが、あくまでメインは『それ』であり、言い換えれば『軸』だ。
『それ』を学ぶ時に必要な『それ以外』は、あくまで『それ』のためにある。

だから例えばボイトレ時などには『それ以外』つまり、普段出していない声、今まで出してこなかった声、を出していく必要がある。
お絵描きの場合は、描きたい絵とは関係なさげな鉛筆デッサンをやる必要もあるかもしれない。

だがあくまでそれらは、目指す一つの『それ』という目標、基準、軸があってこそ成立する。

基本的には、
『なんでもしたがる人間』
というのは、
『軸がぶれた人間』
『軸が無い人間』
であることが多いはずだ。

『なんでもしたがる人間』は結局『なにもできず(極められず)終わる』ことが多そうだ。

ここまで『なんでもできる(したがる)』人を悪く言いすぎたが、例えば新庄剛志さんのように、プロ野球で成績を残して、引退後はモトクロスや絵画もプロ級で、その道でも活躍できる、という人はいる。
そういう人を必要とする人もいるだろう。

繰り返しになるが、人は生まれ持った骨格や才能というものが必ずある。

言葉遊び的だが、なんでもできる人というのは、
『『なんでもできる』ことに『向いている』ように生まれついた』
ということなんだろう。

だが、そうでない、
『『これしかできない』ように生まれついた人間』
が、
『なんでもできるようになろうとする』
ということは、生まれ持ったものを活かせていない感じがする。

俺が強く言いたいのは、
『『これしかできない』ように生まれついた人間』
は、
『あらゆることができる必要になる』
『人には無限の可能性がある』
という言葉に『呪われる』ことがある、ということ。

まとめ

書き忘れたが、『人格の自在性』も同様である。

お笑い芸人でもない人間が、
『あらゆる変顔、ギャグ、ものまねができる人格』
になんかなる必要はない。

基本的には、
『自分に向いた一つの道のプロ』
になることが何より重要。

それはこれまで言ってきた、
『仕事が最優先』
という話にもつながる。

ちなみに俺はまだ、どの道のプロでもない。

これまで俺は、
『人には無限の可能性がある』
という言葉に少し呪われてきた部分がある。

何度も書いてきたが、俺は何もかも中途半端だ。
何もかも中途半端にやることが向いているのか?と自分に問うてみたときに、それはいやだと思える。

これからは、なにか一つでいいから自分に向いていることを極めたい。

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