目標を達成するには仕事を最優先にし一つを極めろ 趣味を持つな 下手の横好き 器用貧乏 中途半端をやめてプロを目指せ 専門バカになれ

まとめてあって長いので、興味のある見出しに飛んで読むことをおすすめします。

目次

仕事の定義とは やらされている事じゃなく自分が本当にやりたい事や成し遂げたい事

ただお金を得るだけなら、会社員だろうがフリーターだろうが自営だろうが、ただの『経済活動』でしかない。

『仕事』というのはお金関係なしに、自分が本当にやりたいこと、成し遂げたい目標。

『それを奪われたら生きていけなくなること』と言ってもいいかもしれない。
それくらい情熱を注げる、悪い言い方をすれば『執着』しているようなこと。

あくまで俺はそう定義しようと思う。
世間一般では仕事=経済活動というイメージなので。
(仕事と経済活動は分けて考えるべき。
それに関しては下の『仕事と経済活動の違い』を参照。』

だから、仕事というのはお金にならなくてもいいことと言える。
誰もが知る有名人や、億万長者でなくとも、自分がそれを本気で成し遂げたいならそれは仕事。

ある意味究極の自己満足だとも思う。
自己満足だから意味があるのであって、他者のものさしでそこそこ評価されて、それを受け入れてしまったらそこで終わってしまう。

どこまでも自分の裁量で決めるから良い意味で終わりがなく、挑戦し続けられる。

仕事を持たないと何もうまくいかなくなる

お金のためだと言ってブラック企業で無理やり働かされているのなんかは論外だ。
だが、ある程度らくにお金を稼げても、『仕事』がないなら意味がないと感じる。
普通にお金は稼げて生活できていても、目標もなく、何十年もそれを繰り返すだけの人生はつまらない。

今は仕方なくフリーターをやっている人でも、未来にどうしても叶えたい仕事があるなら耐えられる。
それがないから過度に現状に執着してしまう。

ちなみに、『恋愛』は『仕事』にはならない。
恋愛を、『それを奪われたら生きていけないこと』『最優先事項』にしてしまうと、男女問わず、間違いなくうまくいかない。

仕事を最優先にしているからこそ、逆に恋愛がうまくいく。
仕事を最優先にしているからこそ、多分他のこともすべてうまくいくんだろう。

そういう意味で仕事は本当に人生の軸というか中心という感じがする。

俺の仕事とは何かと考えたときに、すぐに思い浮かばないのが現状だ。
『それを奪われたら生きていけなくなること』で考えると、ブログと、絵ということになる。
その二つは今の所大きな収入にはなってないし、かといって広告収入用のブログには、なかなかその二つのような情熱を注げない。

そして、『リアルの名義での外での活動』には、仕事や目標がない。
今後はそれらをなんとかしたいと思っている。

仕事と経済活動の違い

仕事というのは自分が社会に提供する機能や役割のことであってそれによって金が発生するかは問題ではない。

だから、売れない芸術家や将来大女優になりたい地方劇団の女優とかも、社会に機能は果たしてるんだから
『仕事:芸術家』
『仕事:女優」
を名乗っていいということ。

仕事は役割を果たすことで金は関係ない。
経済は金を得ること(使うこともだが)。
という風に分けて考えて割り切るべきだ。

本当にやりたい職業をやって、金にならないなら、別に経済活動もやればいい。

「仕事は女優だけど、お金はまだ発生してないからコンビニバイトしてます」
っていうのは、その人にとってコンビニバイトは仕事ではなく経済活動(金を得ること、使うこと)。

だから、経済活動として事業をやって生活できる金があるけど、
「これが俺の『仕事』だ」
と思えることがないという場合、賃金を一切考えず、役割を果たすことだけを考えて例えばバイトとかやってもいい。

多くの人(会社員とか)は仕事と経済が一緒(一つ)になってるから
「嫌な上司とか拘束時間があっても金のためにやらないと」
となる。

ここからは俺の考えだけど、経済はレバレッジをかけ捲くって最小限の力で最大限稼ぐようにする。
そうすれば必然的に時間に余裕が出てくるから、その時間を仕事の活動にあてるのがベストなんじゃないかと。

目標を阻害してくる人はあしらっておく

ただ一般的にはそういう定義は浸透してないだろうし、仕事も経済もまとめて
「仕事は?」
ときかれるからそういう場合はやってることを答えればいいかと。

それか
「画家です」
とこたえて
「それで生活できるの?」
という質問が返ってきたら
「他に経済活動もやってます」
と答えればいい。

俺はそんな事もわからずに
「23歳高校中退職歴なしフリーターは人生終わりなんや」
とわけのわからのとを供述して
「正社員で働かなきゃ」
と周りの『人の目標を阻害してくる人間』に奴隷観念を植え付けられいじめ抜かれて消耗していた。

やりたいことだけやる

俺は10代の頃から生粋のやりたい事しかやらない人間だったので、中学も行きたくなかったからほとんどいかなかったし、高校も2回中退した。
(これは最初から入学しなければよかった話なのでやりたくない事をやってしまったが。)

やりたい事だけやるのが大事と知らない内は、
「あれでよかったのだろうか」
と思っていたが、今思うとやりたいことだけやっていたのであれでよかった。

「それじゃあやばいよ」
とか
「正規雇用されないとやばいよ」
と言ってくる奴は大体
「自分はやりたくない事をやってるからお前もやれ」
という人間なので無視が一番。

当たり前だが、
やりたい事しかやってない人間は、やりたい事しかやってない人間を否定しない。

そして、
やりたい事しかやってない人間は、やりたくない事をやっている人間のことも否定しない。

そんな感じでとりあえず俺も、ほとんど金にはなってないけど
『仕事:画家』
を名乗っていいなと。

広告収入事業の方は経済だが職業意識もある。

最終的には目先の経済活動はやらなくてよくなり、仕事で十分稼げるようになるのが良いと思う。

あらゆる声を出せる必要もあらゆる絵を描ける必要もない 専門バカになれ

これまで某発声訓練の影響もあって、
『あらゆる声を出せるようになるべき』
『あらゆる人格を演じられるようになるべき、そうでない人は苦しんでいる』
とか思っていたが、そうとも限らない。

『これしかできない、これができなくなったら崩壊してしまう』
というような、自在性の低い、リスクヘッジの弱い、
『専門バカ』
でも十分良いということもある、と思う。

野口晴哉氏の『体癖』論を学んでいると、人によって『向き不向き』は大きく違うということがよくわかってきた。
しかもそれは『生まれつき』であることも、腑に落ちてきた。

某発声訓練の影響で冒頭のようなことを思ってきて、さらに某自己啓発の影響からか、
『遺伝なんか関係ない。幼少期の家庭環境や重要人物によって人格も才能も形成される』
『人には無限の可能性がある』
『自分が本当にやりたいことなら努力次第でなんでもできる』
とか思っていたが、はっきり言ってそうではない。

遺伝や、生まれついての才能というものは確かにある。
そんな気は当然、ずっとしていたが、体癖論で『生まれついての骨格の違い』を学んだことで確信した。

育ちなど関係なく人には『向き不向き』があり、その時点で『無限の可能性』なんか無い。
だが、それでいいんである。

その人が生まれ持った骨格を正しく活かし、向いたことを極め、世の中に役割を果たせばいいんである。

つまり、『持ち味を活かす』ということ。

無限の可能性なんて必要ない

むしろ、『無限の可能性』なんてあったら恐ろしい。

まるでなにもない、秩序もルールもない、だだっ広い野原に一人放り出されて、
「何かをやれ」
と言われているような気分になる。

スポーツでも何でもそうだが、ルール(制約)があるから、その限られた中でなにかしようと思える。
言い換えると『選択肢が減る』ということだが、それが重要。

世界中の料理を何でも食べていいと言われて、何万種類の選択肢を並べ立てられたら、決められない。
何かを選択するには、絞っていく必要がある。
生き方を選択するのも同様。

だから『無限の可能性』なんていうのは、そもそも必要ない。

そんなものより、
『持ち味』
『生まれ持った骨格』
『向いていること』
ということをやりきることのほうが重要だ。

人はそのために生まれてきたとすら思える。

人の声には無限の可能性があるとこれまで書いてきたが、仮にあったとして、結局なんの歌手になりたいんだろうか。

『なんでも歌える歌手』だろうか?

世界中の歌手を見てみても、
『ブルースシンガー兼演歌歌手』
とか
『声楽家兼浪曲歌手』
なんてあまり見ない。

いることにはいるのだろうが、少なくとも俺はそういう人に惹かれない。

「なんでもできる」
を押し出してて鼻につくし、ほぼ間違いなくそういう人は、
『意外性』『ギャップアピール』
をしたいだけの、
『何もかも中途半端』『下手の横好き』『器用貧乏』
であることが多い。

B.B.キングが演歌を歌う(歌える)だろうか?
演歌歌手がラップを歌う(歌える)だろうか?
仮に歌えたとして、何になるんだろうか?

確かにB.B.キングが演歌的な歌い方がうまかったら、おおーとなるかもしれない。

またはブルース歌唱のままで演歌を歌ったら、
「これはこれでいいな」
となるかもしれない。

だがそれはすべて、
『B.B.キングがブルースのプロ』
という、一つ最高のジャンルを持ってるから成立することだ。

最初から『何でも歌える歌手』を目指しても、ちょっとした面白い歌手にしかならないだろう。
別の記事に書くが、閉じられた共同体の中でのみ褒められ、馴れ合うだけの『趣味的』な歌手になる可能性が高い。
つまりなにか一つのジャンルを極めた『プロ』にはなれない場合が多いだろう。

俺が言いたいのは、
『一つの道を極めるべき』
ということ。

お絵かきも同様。
ゴルゴ13のさいとう・たかを氏が萌え系の絵をめちゃくちゃうまかったとして、それでなにになるんだろうか?
反応は、上述のB.B.キングのと同じものだろう。

そしてなにより、そうやって色々やって、CDまたは漫画本を出版して売れるだろうか?
または売れなくても、人の心を打つだろうか?

少なくとも俺は好きじゃない。

農家に例えると、キャベツ農家はキャベツだけ作っていればよくて、玉ねぎやじゃがいもや人参は、それぞれの専門の農家に任せればいいんである。

『自分に向いてないことは、向いている人に任せる』
でいいんである。

医者で例えると、外科医が歯科医を兼業したり、耳鼻科医が泌尿器科医を兼業する必要があるだろうか?
基本的には俺はそんな『中途半端』な医者にはかかりたくないと思う。

『それ』と『それ以外』

仏教の縁起的に言えば、
『『それ』を学ぶには『それ以外』を学ぶ必要がある』
というのはわかる。

だが、あくまでメインは『それ』であり、言い換えれば『軸』だ。
『それ』を学ぶ時に必要な『それ以外』は、あくまで『それ』のためにある。

だから例えばボイトレ時などには『それ以外』つまり、普段出していない声、今まで出してこなかった声、を出していく必要がある。
お絵描きの場合は、描きたい絵とは関係なさげな鉛筆デッサンをやる必要もあるかもしれない。

だがあくまでそれらは、目指す一つの『それ』という目標、基準、軸があってこそ成立する。

基本的には、
『なんでもしたがる人間』
というのは、
『軸がぶれた人間』
『軸が無い人間』
であることが多いはずだ。

『なんでもしたがる人間』は結局『なにもできず(極められず)終わる』ことが多そうだ。

ここまで『なんでもできる(したがる)』人を悪く言いすぎたが、例えば新庄剛志さんのように、プロ野球で成績を残して、引退後はモトクロスや絵画もプロ級で、その道でも活躍できる、という人はいる。
そういう人を必要とする人もいるだろう。

繰り返しになるが、人は生まれ持った骨格や才能というものが必ずある。

言葉遊び的だが、なんでもできる人というのは、
『『なんでもできる』ことに『向いている』ように生まれついた』
ということなんだろう。

だが、そうでない、
『『これしかできない』ように生まれついた人間』
が、
『なんでもできるようになろうとする』
ということは、生まれ持ったものを活かせていない感じがする。

俺が強く言いたいのは、
『『これしかできない』ように生まれついた人間』
は、
『あらゆることができる必要になる』
『人には無限の可能性がある』
という言葉に『呪われる』ことがある、ということ。

プロを目指す

書き忘れたが、『人格の自在性』も同様である。

お笑い芸人でもない人間が、
『あらゆる変顔、ギャグ、ものまねができる人格』
になんかなる必要はない。

基本的には、
『自分に向いた一つの道のプロ』
になることが何より重要。

それはこれまで言ってきた、
『仕事が最優先』
という話にもつながる。

ちなみに俺はまだ、どの道のプロでもない。

これまで俺は、
『人には無限の可能性がある』
という言葉に少し呪われてきた部分がある。

何度も書いてきたが、俺は何もかも中途半端だ。
何もかも中途半端にやることが向いているのか?と自分に問うてみたときに、それはいやだと思える。

これからは、なにか一つでいいから自分に向いていることを極めたい。

スキルとノウハウの違い

相変わらず、ブログの広告収入で収益を得ているが、将来を考えると不安になってくる。
ブログ収入は『スキル』になるのかということを考えてしまう。

この先人工知能が仕事を奪っていくと言うが、その際に人間に求められるのは『スキル』だと思う。

『スキル』と『ノウハウ』は違うものだと最近気づいた。

スキルというのは、実際に身体を動かせることで、
ノウハウというのは、知識や方法論。

スキルが身体で、ノウハウが脳みそ。

例えば自転車の乗り方だと、頭で乗り方をシミュレートしたり、口で説明できるだけではなく、実際に身体を使って乗れないと意味がない。
大工や料理人の技術も、素人が知識だけ溜め込んでいくら口で説明できても、実際に身体で再現できないと意味がない。

高度で、多くの人が真似できないスキルこそ価値があり、人に求められ、お金が稼げる。

もしそれが普遍的なこと、誰でも出来ることなら、その質を最高に高めないと人には求められない。
それは例えばしゃべりだったり文章だったりする。
しゃべったり文章を書いたり絵を描くことは、スキルにしては身体を動かす必要性が少ない。
口先、手先だけで出来る。

つまり、ノウハウ(脳)との差が少ない。

そういったものは本当に突出した能力がないと人には認められにくい。

身体が占める割合が大きいスキル

逆にスポーツ選手なんかは身体の動きが占める割合が大きいだけに、実際に身体の動きを訓練する必要性が高い。

身体が占める割合の大きいスキルというのは肉体の劣化とともに下がっていくので、いずれ脳の占める割合が高いスキルに切り替えていく必要が出てくる。
そして脳も最終的には劣化して使い物にならなくなる。

ネットの時代においては、脳が占める割合の高いスキルでもある程度収益を得られるようになったが、それだけでいいんだろうかと思う。
ブログ収入なんかも、手先だけあればできてしまう。

俺は、身体が占める割合が大きいスキルというのが極端に少ない。
力持ちじゃないので引っ越し屋や重労働はできないし、普通のバイトにいくのすら面倒だ。

職場に行く、ということですら足を使うので、十分に身体が占める割合が大きいスキルと言える。

身体が占める割合の大きいスキルは、そこまで優秀でなくとも最低限の収入に繋がりやすい。

ブログ収入や本の出版で生活している人よりも、会社員やフリーターなど外で働いている人が圧倒的に多いことからもわかるように、まだまだ身体が占める割合が大きいスキルは求められている。

マトリックスの世界のように、みんなが脳に電極をつないで電脳世界で活動する世界なら、身体が占める割合が大きいスキルは必要なくなると思うが。

ブログ収入はノウハウさえあれば誰でも再現可能

俺は本を買うなら電子書籍だし、音楽はダウンロード購入。
とにかく電子や脳などの、抽象的な世界で生きたいと思っている。

だから収入も、ブログという抽象的な媒体からだ。

人間は進化とともに抽象的になっていくので、俺はかなり時代に則っていると言うか先取りしているとは思うが、不安も大きい。

本当にこのままブログ収入のみでいいんだろうか。
ブログ収入はあくまでノウハウさえあれば誰でも再現可能なものだ。
だから商材とかが出回る。

『身体が占める割合が大きいスキル』もなにか一つ持っておかないと、ブログ収入という『脳が占める割合が大きいスキル』はすぐに誰かに取って代わられそうな気がする。

まぁブログ収入でも月収7桁くらいあれば当面は問題ないと思う。
なのでとりあえずそれを目指しながら、身体を使う割合の大きいスキルも高めていこうと思う。

趣味を持つな 趣味の世界にあるのは甘えと馴れ合いと内輪ネタのみ

『仕事を最優先にしろ』
『何か一つのプロになれ』
ということを書いてきた。

俺はこれまで何事も中途半端で趣味的だった。

趣味の世界には甘え、馴れ合い、内輪ネタなど、俺の嫌うものばかりがある。
逆に、プロの世界は厳しすぎる。

だからこれまで、嫌なのにもかかわらず趣味的な世界に甘んじてきた。

趣味とはなにか、趣味の定義とは何かと言われると、ものすごく難しい。

それがお金になっているかどうか、というのがわかりやすいが、じゃあいくら稼げば趣味ではなくプロなのか。
1円でも稼げばいいというのはおかしいので、生活費を継続して稼げたらプロ、としてもいいのかもしれないが、生活費は人それぞれだし、この基準もあまり役に立たない。

俺の中で出た結論を言うと、
「これは趣味ではない」
と自分が決意したら、それは趣味ではないということで良いんだと思う。

趣味の対義語はプロかもしれないが、趣味ではないが、プロでもない、という行動は結構ある。

試しに、自分が日常生活の中でやっている行動をリストアップし、その行動は自分にとってなにか、ということをブレインダンプしてみた。

食べることや寝ることは、それらをしなくなると即座に死ぬので趣味ではない。
読書をすることはお金になっていないが、生きるために必要な知識を得るためなので、趣味ではない気がする。

映画を見ることもそれに近いが、読書よりは趣味的。

楽曲制作はお金にならなすぎる上に楽しくないのでやめた。
読書や映画と違って重要でもないし、それをやらないと生きていけないというわけでもない。
必要なかった。

人間関係は、グルメは、ブログは、など色々ありすぎて面倒なので、結局上に書いたように、
「これは趣味ではない」
と思えたらそれは趣味ではないということにする。

歌や絵は趣味なのか

ボイトレが厄介で、歌を歌わないと生きていけないとは全く思わないし、プロになりたいともとても思えない。
ステージで歌いたいと思わないし、仮にプロになるなら絶対自分で作った楽曲を歌いたいので、また作曲を始めることになり、それは億劫だということで、結局音楽活動は全くしたいと思えない。

それなのにブログでボイトレ記事を書いているのは、あまりにも趣味的だ。
閉じた共同体、いわゆる『界隈』で馴れ合うのが本当に気持ち悪いので一切属していないが、上述のように、これは趣味ではない、と決意することもできない。
だから現状においてボイトレは、趣味でも、趣味以外でもなく『俺の中でわだかまっている問題』のような感じかもしれない。

趣味であることが嫌だが、プロになりたいわけでもない、ただ惰性で続けていること、のような感じ。
この状態は楽しくないので、趣味に甘んじると決意するか、明確な目標を設定してプロになるか、決めてしまえたら楽な気がする。

とりあえず水面下で考えつつ、日常のボイトレはしていくことにする。

絵に関しては、いろいろ考えた結果、趣味ではないと断言できる。
本業は広告収入事業だが、いずれは副業として絵で安定した収益を得たいので、この時点からもう趣味ではない。

17歳から今まで、キチ絵やアルティーやエロ絵や絵葉書や漫画など、悩みながらいろんな絵を描いてきたが、結局俺が世の中に提供したいのは『抜くためのエロ絵』だとやっとわかった。

キチ絵やアルティーやちほちゃんのマンガなどは趣味的だった。
一部の人間が褒めてくれるだけで、それは馴れ合いだ。
お金に結びつかないし、それはつまり世の中の役に立っていないということの証明だ。

ここまで長くやってきていつまでも趣味のレベルに甘んじるというのは、単純につまらない。
趣味というのは最初は楽しいが、いずれはプロを目指さないと絶対に面白くないと思えてくる。

何年もやっていてもそう思えてこないなら、よっぽど馴れ合いが好きなんだろう。
その場合はもはや、その行為が好きなんじゃなく、人間と馴れ合えさえすれば『行為』はなんでもいいという状態なんじゃないかと思う。
趣味よりも何よりも人間関係を優先している、最悪のパターンだ。

趣味の世界がいかに甘えと馴れ合いと内輪ネタで溢れているか、ということを掘り下げようとしたのだが結局自分語りになってしまった。

とりあえず俺は趣味と呼べるものをできる限り無くし、
『どうせやるなら極めたい』
と思える行為に絞ってやっていきたい。

上述のように歌はプロになりたいと思えないので、優先順位が相当下がる。
漫然と続けていることほどつまらないことはない。

今後は、中心・軸として広告収入事業に取り組みつつ、『抜ける下品エロ絵』を描いてダウンロード販売していきたい。

何事も中途半端な下手の横好きや器用貧乏は結局何も成し遂げられない

俺は何をやるのも中途半端な、下手の横好きだ。
器用貧乏とも言う。

広告収入事業、エッセイ(このブログ)、お絵描き、音楽制作、歌唱、映画鑑賞、読書、恋愛など色々やっているが、どれも中途半端。
その中で一つでも、これなら人に圧倒的に勝てるというものがない。

最近その事と、声や精神の混同しやすさが関係している気がしている。

中途半端ということは、思いっきりやっていないということとも言える。
声も精神も、思いっきりやると分離されると知り合いに教えてもらった。

本当にそのとおりで、例えば声だと、地声も裏声も、純粋なアンザッツを大声で出しながら上昇なり下降していくと強くひっくり返るので、分離の感覚がつかめる。
精神も、何かに思いっきり取り組めば、日常感なり、非日常感を強く感じられ、分離の感覚がつかめる。
思いっきりやるというのは既存の枠組み(現状)の外へ出るための方法なのかも。

声も精神も、まずは分離することが重要になる。
しっかり分離してから確立して、融合するのは、時間がかかる。
しかしそれこそが、大きな目標を達成するということなんじゃないだろうか。

俺のように何事も中途半端な人間は、分離と確立をすっ飛ばして融合させようとする近代的発声訓練法じゃないか。
不完全な融合(つまり混合)だ。

だから俺は声も、内筋がすっぽ抜けた中声で、つまり喉の全筋肉が中途半端。

描く絵も、自分の興味のあるものをやたらと混合させている。

下手の横好きや器用貧乏な人は、思いっきりやっていない。

目標を複数持つというバランスは重要だが、全部中途半端では意味がない。
それなら一点集中して分離の感覚を掴んだほうがまだマシじゃないか。

なんでもいいからいい加減思いっきりやってみたい。
中途半端にやって完全な融合状態(つまり混合)を続けても、いずれさらに混合して大変なことになりそうだ。

ちなみに何事も中途半端になるのは、循環気質や扁桃体の大きさも多少関係しているんじゃないかと思う。

「本気でやる」「半端にやる」「やらない」の全部ができるようになる必要がある

人生における目標の達成も、声や歌の向上も、極めるつもりで思いっきりやらないと分離の感覚が掴めず不完全に融合(混合)する それでは大成できない、という旨を書いた。
あとで気づいたが、半端というのも自在性の中の一つだと考えると重要だ。

本気でやる、半端にやる、やらない、の3つがあるとしたら本気も半端もやらないも全部できるべき。
本気でしかできない、半端にしかできない、できない、という状態が危険な気がした。

格闘技とかでも強い人ほど手加減がうまいっていうのと似ている。

本気でしかできない人は半端にやってみたり、半端にしかできない人(俺)は本気でやってみたり、足りない部分を補うように心がけていくといいような気がする。

俺の場合は、やらない~半端にやる、まではある程度できる。
最近はとにかく、本気でやる、が抜け落ちているので、やはり本気でやることに重点を置いたほうがよさそう。

全部できてやっとバランスが取れ。

循環気質(躁鬱気質)や感受性が強い(扁桃体が大きい)人は大成できない可能性

タイトルで挙げた二つの特徴は俺のことである。
ココ最近いろいろ考えた結果、この二つの特徴があると、大成できないのではないかと思い始めた。

俺は父親が重度の躁うつ病なのだが、俺自身も、躁うつ病ではないにしろ、循環気質ではある。
循環気質とは、気分の浮き沈みをしやすい性格のこと。

循環気質も人によってサイクルが色々あると思うが俺はだいたい1~2日というスパンである。
これが、俺のオヤジのように月単位だと、エネルギーのバランスがおかしくなって躁状態のときに暴れすぎる。
うつ状態のときにエネルギーが溜まりすぎ、躁状態のときに放出されすぎる。

循環気質はそれのサイクルが早いだけなので、やはり、気分が下がったときに溜まったエネルギーが、上がったときに一気に放出される傾向がある。

そういう気質だと、血肉になっていないことを勢いで語りがちになる。
つまり、じっくりと腰を据えて学んだりできず、短いスパンで、たいしたことないことを小出しにしがちになるのだ。

結果を焦ると、大きな目標を成し遂げることは難しいのではないかと思う。

扁桃体とは

なおかつ俺は生まれつき扁桃体が大きいので、基本的には感情的である。
論理でなく情動で行動しがちで、なににでも情動を持ち込みがち。

扁桃体は感情や恐怖、不安や焦りを司る部分。
どちらかというと動物的で、低レベルな欲求(三大欲求などの短期的で個人的な欲求)を優先する部分である。

扁桃体が大きいと感受性が強くなるので、細かいことを気にしがちになる。
つまり枠組みが狭く、別化性能が強いということになる。
(類化性能、別化性能については折口信夫で検索。)

そうなると、自分以外の多くの人間を巻き込んだ、枠組みが広い、大きな目標を達成するのは難しい。
それに上述のように、情動という低レベルなものをすぐに持ち込むので、ビジネスとかで不利である。

あと気づいたのは、扁桃体が大きいと女性的になるんじゃないか。
女性は感情的だと言うが、それは扁桃体の機能によるものじゃないか。

俺は身体性別は男性だが、とにかく考え方や感じ方が女性っぽい。
これは間違いなく扁桃体が大きいことと関係している気がする。
(単に、幼少期の重要な人物からの影響の可能性もある。)

女性で成功者や大物経営者が少ないのは、そういった部分が関係しているんじゃないかと思う。
(女性が先天的に扁桃体が大きいのかは知らないし、女性ジェンダー観に影響を受けているだけの可能性もあるので断言は全くできんが)

ただまぁ俺は女性は神だと思っているし、自分自身もある程度女性的でありたいと思っているのでこれでいい。

リサーチも何もせずに、また自分の経験だけで書きなぐったが、これが俺のエッセイなのでこれでいい。

あと、この記事で書いた二つの特徴があると、何事も中途半端になるんじゃないかと思う。
何事も中途半端というのは、器用貧乏ということで、やはりそれも大きな目標の達成とは遠いところにある。

まぁ、大きな目標を達成して成功者になることが必ずしも目標達成法の目的ではない。
だが、上記の先天的?な、後天的に変えられない(多分)特徴を持っている人が大きな目標を達成しようとすると、なかなか難儀だと思う。

俺はとりあえず今のままでも楽しいが、大きな目標を達成するには、なんとかしなきゃなと思う。

何事にも優秀な指導者をつけろ 独学はセンスが必要

最近、目標達成法や発声訓練を独学でやっていくのに限界を感じている。
優秀な指導者の元でやったり、学校に行ったりして本格的に学びたい。

これまで俺は何事においても独学でやってきた。
お絵描き、ギター、発声訓練、目標達成法、広告収入事業などなど。

独学でやってきた理由は、学校なんか行っても安心感があるだけで本質的には学べないと思っていたから。
大学はまだしも、絵の専門学校や歌の専門学校なんかに入る人は、入ったことに安心感を得たいだけじゃないかと。
もっと自発的に学ぶべきだと思って独学を貫いていた。

実際その理由自体は正当だと思う。
絵や音楽の専門なんて、ただの食えないミュージシャンがなんちゃって講師をやってビジネスするだけの場所だという考えは今も変わってない。

そんなことにムダに高い学費を払いたくなかった。

あとは、気分屋だったりとか、本気でやる気がなかったりとか。
お絵描きやギターを独学でやってきたものの、プロになるため本気でやるわけじゃないので独学で良いと思っていた。
だから本気度も気分で変わるので、学校に入ってもやめたくなるだろうと思っていた。

まぁそれらの理由で独学を貫いていたのはいいのだが、やはり独学はセンスが要る。

発声訓練は特に顕著。
一人でやっていると曲解しやすい。

発声訓練に至っては、自分の声がどういう状態なのか、よっぽどセンスのある人間しかわからないと思う。
当てずっぽうでやってるうちにどんどんと思考の迷路の中に入っていきそうだ。

俺は発声訓練も独学だが、とてつもなくセンスのある人が身近におり、その人と話して何度も軌道修正してもらっている。
そういう人さえも居ない状態で独学をしていたら、もはや学ばないほうが良かったと思えるくらい危ない方向に向かっていたかもしれない。

普通はそういう人が近くにいない場合が多いと思うので、仕事を極めるには必ず優秀な指導者をつけることをおすすめする。

結果を焦らずに長いスパンで達成を目指す

目標達成はじっくりと、着実に、大きな目標や凄い声を目指していくことが重要。

目標がでかくて現状の外で本当にやりたいことでも、基本は毎日の習慣をコツコツと積み重ねること。
結果を急いで、焦って大急ぎでやってるのは何かがおかしいのではと最近は思い始めた。

例えば俺は昨年広告収入事業で月収20~60万円を稼いで、実家を出るという念願の目標を達成できた。
しかし会社員と違って下積みのない事業だけに、収益はすぐに落ちた。
すぐに得られるものはすぐに失うというやつじゃないだろうか。

人は年をとるごとに、体も精神も老いて劣化していく。
そのままほっといても絶対に進化はしない。
だから、目標を持ち、目標に向かって進んでて、はじめてプラマイゼロかプラスくらいと教えてもらったことがある。

そして、目標に向かう習慣も、目標を持たず漫然と生きる習慣も、どちらも、続けていると一定の間隔で節目というものが必ずやってくる。
経験上、前者を続けててやってくる節目は大きく飛躍できる時で、後者の場合は想定外のろくでもない緊急事態。
どちらにしても、現状を出ざるを得なくなるということです。

俺は去年までほぼ後者だったので、焦って大急ぎでやって、やっとリカバリできたくらいなのかなと。
リカバリできないよりはましだけど、俺みたいにならないように、普段からしっかり目標達成への習慣をつけておくべきです。

今後も目標に向かい、目標を更新し続けるのは当たり前だけど、ある程度慣性にまかせて習慣をコツコツと積み重ねることを重視したほうが良い気がしてきたという次第です。

目標達成法と某発声訓練の二つは、現時点でかなり正確性の高いノウハウだと思う。
だがあくまで魔法の杖ではなく、日々焦らずコツコツと続けていくことが大前提。

結果を焦っている時点でそれはどう考えても自己肯定感が低い。
面倒なことをすっ飛ばして、楽して結果だけを得ようとしている感じがある。

目標達成法にしても発声訓練にしても、しっかりと腰を据えて、巨大な目標や凄い声を目指すことが大事なはず。

短期的にその場を収めていく刹那快楽的な生き方は危険

これまで散々書いてきたが、そういう生き方をしていると基本的に人生はうまくいかない。
大きな事を成し遂げられない。

日々、その場その場思ったことをやるだけで、未来に繋がっていかない。
短期的にすべてが完結して、何かを積み重ねていくことがない。

ノーフューチャー精神というか、今さえ楽しければいい、という生き方とも言える。

例えば、翌日苦しかろうが、将来病気になろうが、今気持ちいいから酒を飲む、精神薬でラリる。
子供ができようが、生でセックスする。
とかの刹那快楽主義。

長期的スパンで物事を見られず、計画が建てられない。
前頭前野が働いておらず、扁桃体が働いていると言える。
枠組みが狭い。
つまり人間的ではなく動物的。
前頭前野が働くことの快感を楽しんでこそ人間だ。

絵で言うと、落書きしかできない。
何週間~何ヶ月もかけたカラーの超大作を描けない。
パッと描いてパッと公開できる落書きじゃないと間が持たない。

ブログにしても、ちゃんとリサーチや思考を重ねたまとまりのいい記事が書けない。
このブログのエッセイのような、行き当たりばったりで書きなぐった記事しか書けない。

未来に何も残らない

短期的な生き方をしていると、人生は衰退していく。
何も積み重ねていかない生き方なので、老化や脳の劣化や、周りの進歩に置いてけぼりを食らう。

今勉強が嫌だから学校に行かない、もしくは学校をやめる、ということをやってしまうと、今は楽でも、未来に何も残らない
仕事やキャリアも同じである。

長期的視野を持った生き方なら、今が多少苦しくとも、未来では笑える可能性が高い。
多少苦しくとも勉強をすることで、未来でそれが活きてくる。

人間関係もそうで、今嫌な気持ちになったから友達を切る、恋人と別れる、離婚する。
そういう事をしていると、未来でひとりぼっちになり、あの時我慢していればと後悔する。

短期的生き方は、結局のところ短期的に見ても楽しくない。
今は楽しいけど、未来はどうなってしまうんだろう、と、じわじわとした不安が続く。

遠い未来の目標に臨場感を持ち今したいことをする

上に書いたことはすべて二十歳以降の俺のことである。
10代の時はまだ少し長期的目線があったように思う。

酒を飲み始めてから、人生におけるほとんどの事柄で、短期的になることが本当に多くなった。

しかし最近、その事による弊害があまりにも大きくなってきたので、いい加減見直そうとしている。
短期的に生きてきたせいで、学歴も資格もキャリアもなく、スキルもほとんどない。

リアルで周りにいる人間も少なく、重要だったネットの人物とも、その場の感情で縁を切ってしまい、未だに後悔している。

長期的視野を優先する人間、つまり扁桃体でなく前頭前野が働いた人間になる。
短期的なものは快楽、長期的なものは忍耐だと思われがちだが、前頭前野にも快楽はある。

遠い未来に目標を設定し、そのために今やるべきことを逆算する。
そうしていくことで、その場を収めるのではなく、確実に前に進むので、不安は少ない。
忍耐もあるだろうが、未来の臨場感が強ければそれもやりたいことになると思う。

不安があるとすれば、明日死んだらどうするという仮定だと思う。
せっかく忍耐しても、明日死んでしまったら未来は来ない、なら今を楽しんでしまえ、となる。

俺も今までそう思っていたが、間違いだった。
明日死ぬとしても未来を優先することこそが重要だと思う。

長期的視野を優先するというのは、未来のために現在を犠牲にする、ということではない。
未来の臨場感をありありと感じながら、その未来のために現在やりたいことをする。

現在は、理想の未来に最も近い状態だ。
と考えると、現在が常に最高であり、現在こそが過去に思い描いた理想の未来なんである。
だから、明日死ぬことを恐れる必要もない。
いつ死んでもいいとさえ言えると思う。

そのくらい未来が見える、前頭前野を働かせられてこそ人間だ。

酒や薬はそれを妨げるので、目標達成法的にはNGなんだろう。

長期的視野を持つ、未来の目標を優先する(上述のように、優先すると言うと語弊があるが)のは、今まで刹那快楽的に生きてきた人間はすぐにはできないと思う。
まさに俺もだ。

今がどうとか、手段がどうとかじゃなく、10年後20年後どうなっていたいかをありありと想像しなければならない。
そのためには枠組みを広げる必要が嫌でもあるし、想像力を働かせる必要もある。
やはりそれも日々の訓練だと思う。

これから俺はほんとに、積み重ねていく人生を歩みたい。
遠い未来の理想に向かって現在を生きている限り、明日死ぬとしても悔いのない人生だ。

この世は縁起なので、一つを変えればすべてに影響して、すべてが少しずつ変わっていく。
バランスの中の一つを長期的にするだけでも、他のことも連動していくはず。

その行動が短期的か長期的かは結局わからない部分もある

短期的すぎる自分がいやになっていたが、結局、今俺がやってることが短期的かどうかは今の俺も周りの人間もわからない。
7年前に短期的だと思いながらやってたこと(キチ絵とか奇声)で当時価値ないと思った作品でも今の俺にとって重要になったものもある。
もう、全部自己責任でで思うままに行動したれ、今を生きたれとも思う。

未来の目標イメージの臨場感さえ上げてれば、あとは今を生きることを意識してればいいだろう。

「俺が短期的なのかどうか、刹那快楽的なのかどうかはお前自身が決めろ!!!!俺は俺自身の意志で良いと思う方向に行動するっ!!!!」

8年前にイメージ(視覚化)していたことが叶っていた

恋愛に関することなんだが、叶っていた。
さっき気づいて戦慄した。
今の恋人に関することである。

当時は目標達成法とか目標達成文の読み上げとか意識してなかったし、ただの現実逃避の妄想としての視覚化だった。
だが瞑想と言えるほど没頭していたし臨場感も半端なかった。

その妄想は10代のうちにやめてしまったが、最近その妄想とほぼ同じような状況にいることに気づいた。
もちろんすべて同じじゃないが、酷似している。

こんなこともあるんだなと思った。
現実逃避のための妄想や空想の際の視覚化でも、何かしら奥深くにある信念を書き換えることになるんだろう。

目標達成文の読み上げや視覚化はけっこうみんな形式ばってやると思う。
でも、できれば空想や妄想と言えるくらい気軽に、自然と没頭できるようなのがいいのかもしれない。

良くも悪くも、イメージしたことは必ず現実になるということなので、注意も必要だと思う。
今回のように、8年越しに物理空間に実現するということもある。

最近は長期的スパンで物事を考え、取り組んでいくと書いたが、そう考えると8年くらい短いと思える。
某発声訓練も最低6年かかる。

とにかく、視覚化していけば必ず現実になるので、気楽に空想するような感じで視覚化すると良いと思う。
夜寝る前の目標達成文の読み上げの時間だけじゃなく、常に空想する感じでいいんだろう。

あまりにもデカすぎる目標達成イメージの場合、自分の生涯(100年程度)では現実にならないかもしれない。
でも自分が死んだ後、イメージや精神世界を含めた自分の縁起によって、次の世代の人たちが実現するかもしれない。
そのくらい枠組みが広くてもいいと思う。

イメージの力は半端なものではないと改めて実感したので、今後も視覚化に力を入れていきたい。

多くの人は目標達成法に頼らなくても人生がうまくいっている?

最近、わざわざ目標達成法に頼らずとも、多くの人はそこそこうまくいってるような気がすることがある。
言うほどやりたくないことばっかりやらされてる奴隷みたいな人も少ない気がするし、人のやりたいことに対して無理だろとか言ってくる人も、特に最近の俺の周りにはいない。
普通にいい人ばかり。

まぁそれは俺がそういう人間になってきたから、等しい人間が引き寄せられてきたのだと思うが。

ただ長い目で見た時に、間違いなく目標達成法の知識が活きる。
就職とかまではある程度目標達成法知識なしでうまくいっても、結婚とか30~50代あたりに来た時に目標達成法知ってるかどうかで問題解決できるかどうか、苦しむかどうかわかれてくる。
独学のプロ歌手とか天然中声の人が混合が進んで声を失ったりするのと似ている。

声も精神も、若いうち(体力や精神力のある内)は結構勢いで乗り切れたりするが、それらに頼れなくなったとき、正しい理論が必要になってくる。

若いうちに目標達成法を知った人がラッキーなのは間違いない。

昨日、自分用の目標に関する画像とか文書ファイルを集めてたフォルダごちゃごちゃになってたんで久々に見ていたら、2年前に設定してた目標達成文が出てきて、かなり長期的なものを除けばほとんど叶っていて驚いた。

やはり俺は目標達成法や釈迦の教えなどにかなり救われている。
今後もそれらを実践していく。


このブログの記事は、一学習者・一素人の気付きとして書かれたものです。
特に目標達成法に関する記事の内容は、安易に実践すると危険な場合がありますので、自己責任でお願いします。

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