音楽や歌唱の好みは10代の頃の原体験が全て 必要なのは歌唱力ではなく必然性

これまでこのブログに色々と発声訓練の記事を書いてきて、相変わらず理想の声(俺の場合は、中性的で軽い声)を出すべく発声訓練を続けている。
だがトレーナーをつけたりはしておらず、どうも本格的には身が入らない。
趣味的なのは嫌だが、プロを目指すほどのモチベはないし、という感じでどっちつかず。

その理由は前から薄っすらとわかっていたことだが、更にいろいろと考えてみた結果、公開できる程度にまとまった。

この記事は、できる限り俺の思ったことすべてを書きつくしたので、かなり長いですが、興味のある人は読んでください。
ところどころ楽曲の動画を挿入していて、その数も10個近いので、聴くなら全部読んでから一つずつゆっくり聴くことをおすすめします。

原体験

俺の持論は、音楽の好みや、歌唱の方向性は『原体験』が全てということ。
その原体験を超えた範囲の音楽や歌唱はできないし、身も入りようがない。

原体験とは何かと言うと、とてつもなく強烈な衝撃を受けた体験のことで、多くの場合10代の頃に経験することになるはず。
もちろんもっと小さい頃なこともある。

俺の個人的な原体験の音楽は、Syrup16gとネクラポップという二つのバンドに集約される。

俺の音楽の変遷を書くと、小5までは特に音楽に興味がなく、歌うことも好きではなかったが、小6からヒット曲を追うようになり、中1の時にアジカンを聴き始めた。
音楽をアルバム単位で聴きはじめたのはそれが初めて。

Syrup16g

そこから知り合いを通じて色々と音楽を漁るうちに、Syrup16gというバンドに出会った。

小6で教師に反抗して暴れまくり、その反動で中1の9月から学校に行けなくなり、中2の頃の俺は人生で一番病んでいて、世間や社会とどう折り合いをつけていいかわからず、もがき苦しんでいた。

その状態でSyrup16gに出会い、Syrup16gの音楽に触れた時、
「こんなことを歌っていいのか」
と、とてつもない衝撃を受けた。

それが実質的には俺の原体験であり、学校に行けない日は、1日中毛布にくるまって、Syrup16gの音楽だけを何時間も聴き続けた(特にアルバム『coup d’Etat』と『HELL-SEE』)。
楽曲の世界観、メロディー、歌詞、Voの五十嵐隆の歌声、すべてが麻薬のように脳味噌に染み込んでいった。

それが俺の人格や人生観全てのルーツになっている。
当時明晰夢や体外離脱にも挑戦していて、それもあって楽曲の世界観の印象が強烈に脳裏に焼き付いている。

具体的にどの楽曲かはここには紹介しきれないので、とりあえずアルバム未収録のマイナーな曲を二曲紹介する。

ただ、この音楽を『当時の俺』と限りなく近い心境でない人がきいても、結局『原体験』と呼べるほどの衝撃は受けないのだろうなと思う。
『感応しない』というか。
ニュアンスだけでも伝わってほしいが、体外離脱の記事と同じで、俺の文章力ではそれも厳しいかもしれない。

ネクラポップ

その後、ネクラポップというバンドに出会った。
ネクラポップも強烈な原体験であり、このバンドの音楽を超えるものはでてこないとすら思っている。

ちょっとこの時点でSyrup16gのことを書きすぎたし、ネクラポップに関しては以下の記事に詳しく書いたので、興味がある人は読んでください。

ネクラポップというバンドについて 「人間の屑」「あくまのて」「ネクラエンド」などの楽曲の歌詞や感想 解散と新曲
15歳の時に、スカイプの知り合いに『ネクラポップ』というバンドを紹介してもらった。 この記事では、ネクラポップの楽曲や、ネクラポップの楽曲...

楽曲も2曲ほど貼っておきます。
ネクラエンドという曲は、上の記事にも書いたが、『死ぬときに延々と流したい』と思えるほど、この人生・宇宙・時間の全てを包摂しているように感じる。

しかし結局、上述のSyrup16gに関することと同じで、感応しない人間にはニュアンスさえも伝わらないだろう。
ましてやボイストレーニングなんかやってる人間の感性や精神状態からは最も遠い音楽だと思う。

その後

その後、エレカシに出会い、フラワーカンパニーズに出会い、それらにも強烈な影響を受けた。
(厳密には、エレカシに出会ったのはネクラポップの前だが、強く影響を受けたのはネクラポップの後だった気がする。)

特にフラワーカンパニーズの精神性は、中2の頃Syrup16gを聴いて泥のように眠っていた頃とは打って変わって、ネット配信で奇声を上げまくる躁病的な精神性に繋がった。
(これに関してもあまりにも長くなるので詳細は割愛する。)

当時の奇声 音量注意

17,18,19と年をとるごとに、徐々に、音楽でも人生でも、強烈な体験はしなくなっていた。
20代前後に出会ったTheピーズと岡村靖幸をもって、強烈な体験はしなくなった。

スピッツもかなり聴いていたが、強烈という印象はなく、それ故に今も聴き続けられ、カラオケや弾き語りでも楽しく歌うことができている。

ここまでをまとめると、俺が本当に好きな音楽(この言い方でも陳腐に感じる)というか、本当に求めている音楽は、
『死ぬ直前に延々と聴きたくなる音楽』
『超”個人的”な音楽』
なのかなと思う。

それが上述のSyrup16gやネクラポップの音楽だが、それ以外のアーティストでもそういう曲はあり、以下の記事にまとめているので興味がある人は読んでください。

死ぬ時に流したい名曲集
以下の曲は、俺が今まで聞いてきた音楽の中で特に、人生、時間、宇宙など大きな概念を包含していると感じた曲です。 今まで、邦楽ロックをメインに...

その中からあえて一曲紹介するならこの曲。

発声能力

原体験とその音楽に関することだけでも2,000文字を超えてしまったが、まだまだ続きます。

発声訓練、そして発声能力の話だが、結局のところ、俺が、原体験に基づいた音楽をやるなら、はっきり言って発声能力を向上させる必要はない。
今の発声能力のまま、良い楽曲、つまり『自分に必然性のある楽曲』を書き、歌い、感応する人に感応すればそれでいい、ということ。

上述のSyrup16gもネクラポップも、ボーカルの発声能力は全く高くなく、失礼ながら、初めて聴いた人が、
「え、ヘタ」
「声が好きじゃない」
とか思う可能性も高い部類かもしれない。

それでも、俺のように原体験として上記の音楽に触れた人間には、その声が麻薬のようにすら感じるはず。

繰り返すが、俺は、高い発声能力を必要とする音楽を求めていない。
それなのになぜ発声訓練をやり、軽い声(これは一般男性からするとある程度高い発声能力が必要となる)を出したいかというと、やはりただの『趣味』としか言いようがないような気がしている。

俺は基本的にHIP-HOP以外はなんでも好きなので、上記のバンド以外の音楽も色々きいて楽しんできた。
例えば、Syrup16gを聴きまくって居た頃、並行してアニソンやエロゲソングや電波ソングを聴いてノリノリにもなっていた。

その辺りから「女性ボーカル(主にアニソン)を原曲キーで歌えるようになりたい」という思いがずっとあり、それが、当時から発声訓練を調べるきっかけになっている。
だがそれはあくまで趣味的であり、できたらいいな、レベルくらいのこと。

アニソン等の音楽はテンションが上がるし明るい気持ちになるが、判断基準として、死ぬときに流したいと思える音楽ではない。
(ハルヒの楽曲とかは個人的に思い出深いので流したいかもしれない。)

理想の声

俺が理想の声としていつも挙げる、
yasu、中川晃教、VIP店長、Toshi、小田和正(敬称略)
の5人について。
(5人、というか他にもいるが、わかりやすいのであえて5人とします)

彼らの声は本当に好きだし、日本の平均男性と比較してみても発声能力は間違いなく高いし、商業的にも成功しているし、作曲もできる。

だが、彼ら的な声を、または、彼ら的な声がマッチする楽曲(上の5人の声は大体どんな楽曲にもマッチすると思うが)を、死ぬ前に流したいか、と言うとそうではない、となってくる。
Syrup16gやネクラポップに感じたものや、求めているものとは根本的に別次元にある。

楽しげというか、コミュニケーションに使える、というか、なんにせよ間違いなく大好きなのだが、心の一番深いところとは関係していない、と言うんだろうか。

『生死』にまでは関係してきていない、と言えるかもしれない。

もちろん、『上記の5人的な音楽こそが原体験である』という人にとっては何よりも大切な音楽なのは当然理解できる。
原体験というのは人によって違い、そこに優劣は一切存在しない。

俺はあくまで、彼ら的な音楽は『世の中にコミットする方法』として好きなんだろう。
例えば人とカラオケに行ったなら、決してSyrup16gの音楽でなく、歌謡曲やアニソンを選んで、彼ら的な声で歌いたい。

繰り返すが俺は原体験となった音楽以外も全然好きだし、今でも新しい音楽を発掘しようとしている。
楽しい曲、歌唱や、感動できる歌唱(これに関しては後述)を見つけるといい気持ちになる。

だから俺は人の声に関して全くシビアではなく、どんな声であっても『その楽曲に合っていればいい』つまり『必然性』があればいいと捉えている。

人の声を観察・分析するのも、高い発声能力を持った人を探すのも好きだが、あくまでそれはどこまでいっても、生死にまでは関係していない。
それほどまでに、俺が本質的に求める音楽は、原体験となった音楽だけであり、それを超えるものはおそらく今後何十年生きても出てこないはず。

ここまでをまとめると、新しい音楽や高い発声能力の人間を探したり、発声訓練をやって軽い声を目指して、nanaや人とのカラオケで楽しみたいのは、趣味としてだったり、世の中にコミットするためであって、原体験となった音楽とは違う付き合い方をしている、という感じ。

感動する歌唱と歌唱力

『感動する歌唱』と『歌唱力』について書いてみる。
これに関してはボイトレをやっている人のほとんどが求めるところだと思う。

まず最初に書いておくと、俺の原体験であるSyrup16gとネクラポップは、『感動する歌唱』ではない。
結局、感動する歌唱というのは、『聴いている人が泣くほどの歌唱』なんじゃないかと思うが、俺はSyrup16gやネクラポップの楽曲で泣いたことはおそらくない。

『歌唱力』という言葉は本当に定義が難しく、最低限の歌唱力、と言うなら、ピッチとリズムがとれて、とかいうことになってくる。
じゃあ最高の歌唱力とはなにかというと、ビッグデータ的に『多くの人』が感動する歌唱(上にも書いたように、聴いている人が泣くほどの歌唱)だと俺は定義している。

もちろん、歌唱力というのは発声能力を包摂する(だから、ボイストレーニングとボーカルトレーニングは分けるべきという意見はわかる)が、中には発声能力が低くても、多くの人が感動する歌唱をする場合があるが(しかもシチュエーションや場所さえも影響してくる)、複雑なのでここでは割愛する。

『泣いてしまうほどの歌唱力』を見せつけられると、精神に多大な影響があり、そういう歌唱に出会えた時は至上の喜びがあることも間違いない。
しかしそういった歌唱は、当然、重いテーマを伝える楽曲が必要だし、なおかつ、そのボーカリストのその時のコンディションや些細な精神状態、そして歌う場所(シチュエーション)と、挙げ句には自分(聞き手)の精神状態さえも影響し、すべてに『必然性』が必要となるので、簡単には出会えない。
だからこそ、出会えた時の喜びが大きい。

以下に、最近聴いて泣いた、または泣きそうになった歌唱を貼る。

ジェジュンさんのFor get me notは、もう一つのテイクが圧倒的だったのだが削除されてしまった。
鬼気迫るというか、息を呑むというか、言葉にならないというか、発声能力を意識することなんか脳裏から消え失せ、ただ呆然と聴くしかなくなり、気がついたら涙が出ているような、とてつもない歌唱だった。

以下のテイクもいいのだが、もう一つの方には劣る。
それくらい、歌い手の些細な精神状態やコンディションが影響するのだろうと思う。




しかし、上記のような本当に感動する音楽、泣けるレベルの最高の歌唱力の音楽さえ、やはり生死にまでは関係してこない。
聴いている時は本当に涙が流れるが、原体験とはやはり別次元のものという感じだろうか。

俺は原体験である14~17歳の頃、
『感動する音楽や、泣ける歌唱に感応しなかった』
ということが全てな気がする。

だから俺は結局の所、感動する音楽を作りたいとは微塵も思えないし、泣ける歌唱なんかできるわけもないし、したいとも思えない。
そして、する必要もない。

俺がもしトチ狂ってそんなことを曲がりなりにもやろうとしたら、ただの『うまげ』な歌唱にさえもならず、滑稽になるだけだろう。
『必然性』がないからだ。

ここまでまとめると、上記のような感動する音楽や歌唱は、楽しげな音楽と同じように、生活に必要だし、出会えた時の喜びは果てしないが、原体験ではないし、生死にまでは関係してこない、ということ。
(生死生死とくどすぎたが、他に良い言葉が見つからない。)

必然性

先程『必然性』という言葉を使い、上の方に、
『良い楽曲、つまり『自分に必然性のある楽曲』を書き、歌い、感応する人に感応すればそれでいい』
と書いた。

その『必然性』に関してだが、音楽をやる上で(実際は音楽だけじゃなくすべての創作や行動に言えるが)最も重要なのは、歌唱力やテクニックではなく、それらもすべて含めた『必然性』だと俺は思っている。

必然性というのは説明するのが難しいので、また陳腐な言い方になるが、『自分の人生や生きてきた過程の一番奥から発生していて、嘘がない』という感じだろうか。

そして必然性は、ここまでさんざん書いてきた『原体験』に深く関係していて、当たり前だが原体験を超えた必然性というものは存在しようがない。
だから才能とは、個人の生まれつきの(脳も含めた)身体能力はもちろん、家庭環境、学校などの環境、そしてそれらが複雑に作用して発生する原体験と必然性までを含めて、才能というのだと思っている。

例えば、先程、感動する歌唱のところで挙げた玉置浩二さんだが、彼はあのような多くの人が感動する歌唱やソングライティングができるだけでなく、とてつもなく『個人的』な楽曲も作り、歌うことができる。
もちろんそこにも必然性がある。

それこそがまさに才能の幅、原体験の幅なのかなと思う。
(玉置さんの原体験に関しては自叙伝『幸せになるために生まれてきたんだから』を参照。)

その『個人的』な楽曲というのは『カリント工場の煙突の上に』というソロ名義でのアルバムが顕著で、そのアルバムにはとてもヒット曲となりそうな曲はなく、ただひたすら玉置さんの幼少期の体験(それももちろん原体験の一種)を克明に表現した楽曲が収録されている。

その中でもタイトル曲『カリント工場の煙突の上に』は今でも歌われていて有名だが、他にも『元気な街』『ダンボールと蜜柑箱』『キラキラ ニコニコ』『西棟午前六時半』『納屋の空』などの曲があり、それらの曲は、玉置さんの精神世界に取り込まれていきそうな、ある種スピリチュアル的な雰囲気を持っていて、怖いとすら感じた。

収録楽曲はほとんどYoutubeに上がっていないが『青い”なす”畑』という曲の弾き語りがあった。
この弾き語り音源でも充分に『個人的』な雰囲気を感じられるので、聴いてみてほしい。

特に『西棟午前六時半』『納屋の空』に関しては、Syrup16gを初めて聴いたときと同じく
「こんなことを本当に歌ってしまって良いのか、世の中に発表していいのか」
というショックを受けた。

興味がある人は以下の記事もどうぞ。

安全地帯・玉置浩二さんの年代ごとの顔つき、歌唱、楽曲について 活動休止、ソロ、軽井沢、躁鬱病など
玉置浩二さんの「カリント工場の煙突の上に」というアルバムをはじめて聴いたときとてつもない衝撃をうけた こんなアルバムを発売していいのかとさえ...

それらの楽曲は、俺の原体験となった楽曲と方向性が近く、間違いなく生死に関係している。
(玉置浩二さんは原体験として、小さい頃に、よく遊んでいた近所の小さい子供が川に溺れて亡くなる、ということを経験している。
そのことは上に貼った『カリント工場の煙突の上に』という楽曲でも「僕が今でも泳げないわけは 川で溺れたあいつのせいさ」という歌詞でも表現されている。)

玉置浩二さんは、多くの人が楽しめるヒット曲も、感動する楽曲も、そして大衆性の低い、個人的な音楽も作ることができる、本当にとんでもない才能を持ったミュージシャンなんである。
今も歌唱力は十分に評価されているが、アルバム『カリント工場の煙突の上に』の楽曲まで含めて評価している人は少ないように思う。

ここまでをまとめると、音楽・歌唱は必然性がすべて、そしてその必然性は原体験に基づいていて、原体験の幅が、その人の才能の幅に関係している、あと玉置浩二さんはすごい、ということ。

ソングライティング

必然性や原体験の話を踏まえると、結局『曲を作る』ことに繋がってくる。

前から思っていたことだが、ボイストレーニングをやっている人には、曲を作っている人が異様に少ない。
バンドマンがなりふり構わず自分で曲を作って歌い、路上やライブハウスでライブ活動をし始めるのに対して、ボイストレーニングをやってる人はいつまでもカラオケで他人の曲を歌っている。
それはまさに上述の「歌がうまくなりたい」と関係しているように思う。

原体験が薄く、つまり才能がないから、「歌がうまくなりたい」と今更思い始め、カラオケ的に他人の楽曲をなぞることしかできず、そういう人同士で競い合うことしかできない。

自分の原体験に基づき、必然性のある音楽をやろうと思った時、人は自然に楽曲を作り始め、当然努力はするが、形式張ったボイストレーニングをやらずとも自然に歌もうまくなる(または、その楽曲に必然性のある歌声になる)と俺は考えている。

そのオリジナルの楽曲の質や、歌唱を、他人は勝手に他のものと比較するかもしれないが、本人の中では唯一無二であり、ただただ必然性だけがある。
それは自己満足や、閉じた共同体の中での褒め合いと紙一重かもしれないが本質的には違う。

もちろん商業的に成功するためには、原体験を、原液を、薄め、うまくポピュラーな物を取り入れたりする必要はあり、さらに容姿や立ち振る舞いやマーケティング云々なども絡んできて、そこに様々な葛藤はあるが、なんにしても大筋は原体験に基づいている。

ちなみに俺も楽曲を作り(『安確いじり宣言』というアルバム)、歌い、公開して、それによって何かが満足したが、もちろん商業的に成功もしていないし、ネットで話題、というレベルにすらなっていない。
それに加えて、俺はもう、『個人的』な曲は作れない。

それはつまり、原体験がその程度の強さと幅だった、としか言いようがない。

曲自体は今後も作ろうと思えば作れるだろうが、それはあくまで、理想の声のところに書いたような、世の中にコミットするための楽曲になるはずだ。
Syrup16gのような、ネクラポップのような、玉置浩二さんの『カリント工場の煙突の上に』というアルバムのような、『生死』に関係する方向性を持った『個人的』な楽曲、というのはもう作れない。

安確いじり宣言というの大部分の楽曲は、照れのようなものが働いてしまい(というより、形にして世に出す際のボトルネックというんだろうか)、そのような個人的なものはないが、少なくとも必然性はあった。

安確いじり宣言の中で個人的なものを感じるのは、『未定』というインスト曲のみ。
もちろんこの曲が上記のアーティストの楽曲に匹敵するなどという意味ではなく、方向性が個人的、という意味で似たものを感じるという意味です。

何度も書くが、俺の原体験はあくまで『個人的』な曲、『死ぬときに流したいような曲』だが、自分ではもう書けないし、書く必要もないのだろうなと思う。

今から、Syrup16gやネクラポップの楽曲を模倣しても何の意味もない。
それこそまさに必然性がない。

なぜなら、それらの楽曲はすでにこの世に存在していて、それをなぞっても何の意味もないからだ。
同じようなものを作っても意味がなく、意識して参考にした時点で必然性はなく、ただ世の中にコミットするための楽曲になってしまう。

他の人がやっていることを模倣するのも手法の一つだが、本当に原体験的で、個人的な音楽を作るには、その手法ではどうにもならないという気がする。
あえて必要なものを言うなら『切実さ』だろうか。

ちなみに、上述のネクラポップも、10年以上前にアルバム1枚とシングル3枚を発表したきり、音源を発表していない。
それらをもって、表現したい音楽を表現し尽くしてしまったのだと俺は推測している。
寡作が良いとか、多作が良いとかじゃなく、そういう必然性なんだろう。

「歌がうまくなりたい」に対する違和感

正直言って、俺程度の原体験しか持たない人間でも、なんとか曲を書いて歌ってみて、そしてもう書けなくなっているのに、ただひたすらに、
「歌がうまくなりたい」
とだけ連呼しながらボイストレーニングをし、カラオケで他人の楽曲をなぞって一喜一憂している人間は、なんなんだろうか、と思う。

歌がうまくなったら(うまいの定義は歌唱力とはまた違うが同様にややこしいので個々人に任せる)、カラオケで楽しめる、人気者になれる、もしかしたらプロになれる、と思うのだろうが、そこに、上述のような『必然性』はあるのかどうか、自分に問い直してみてほしい。
そのためにこの記事を書いている。

玉置さんのように、原体験がとてつもなく強烈で幅がある人間は、わざわざボイストレーニングなんかしなくてもすでに自分に『必然性』のある歌唱力を手に入れているはずだ。
繰り返すが、生まれ持ったものに原体験が合わさって、才能と呼ぶのだと俺は思う。

『世の中に出て成功しているミュージシャンの多くが、ボイストレーニングをせずに高い発声能力を持っている』
というのも、この記事で書いたような原体験つまり才能に起因するのだと俺は考えている。
上にも書いたように、才能のある人間は自然に曲を作り始め、自然に歌を歌い始めるからだ。

逆に言うと、今更『歌がうまくなりたい』と言っている時点で、それは『大した原体験がなかった』ということを証明してしまっている。
そして、原体験を超える歌唱をすることや楽曲を作ることは基本的にできない。

突き詰めれば、「歌がうまくなりたい」と言っている人間は、全員、音楽の才能がない。

文章、絵、造形、ダンスなど、数ある表現手段の中からあえて音楽、しかも歌唱を選び、それを使って自分の原体験や世の中に伝えたいことを表現したいはずなのに、曲も作らず「歌がうまくなりたい」と連呼し、結局その大部分が一生大成せずに終わるのだろうなと思う。

大成せず終わる、というのは、どこかで諦めるか、続けても一生うまくなれないか、仮にうまくなれても、それは趣味の域を超えず、つまり閉じた共同体や狭い共同体の中だけで褒め合ったり張り合ったりを続けるか、など。

自分自身の今後を書くと、原体験つまり才能の幅はわかったし、なんとか『必然性』のある楽曲だったり『個人的』な楽曲は作って公開できたが、今は作れないので、とりあえず理想の声のところに書いたような軽い声、世の中にコミットした楽しげな楽曲を歌ってnanaやカラオケで楽しもう、という感じです。

個人的な楽曲、必然的な楽曲を書き歌うことは、当分できる気はしないが、できるときにはできるはずなので、今は気楽に音楽と歌唱をしていく。
なんにしても、閉じた共同体の中で褒め合うのだけはいやなので、それだけは避ける。

まとめ

10,000文字近くになってしまったが、書きたいことはだいたい書けた気がする。

原体験も含めた『才能』というものを絶対視したような、少し絶望的な記事になってしまったのは不本意だが、ある程度は事実だと思うので仕方がない。
大人になってからでも原体験レベルの衝撃的な体験はあると思うし、それは人生を拡張していくこととも関係していると思うが、記事の方向性的に、詳しくは割愛する。

上にも書いたように、音楽に限らず、世に出て成功する人間の才能は、生まれ持った身体能力(脳も含む)に、原体験(人によって千差万別であり、当然、中には部落差別など酷く悲劇的なものもある)が合わさって生じるものだと思うので、そういった才能を得られる確率はかなり低い。
それを『運』の一言で片付けても片付けなくても、あまり自分自身の向上に関係ないのでどっちでもいいと思う。

それより、自分を見つめ直し、地に足をつけて今できることをやるべきだ。

自己啓発にしても発声訓練にしても、
『誰しも無限の可能性がある』
という文言がよく出てくる気がするが、それは『指導者』にとって都合が良いだけの、嘘かもしれない。
原体験や、持って生まれた才能を無視してその言葉を盲信すると、おそらく苦しむことになる。

俺が言いたいのは、
『自分の原体験は何なのか、それを踏まえた上で、本当にボイストレーニングをして歌がうまくなりたいのか』
『必然性はあるのか』
『どのくらいの切実さがあるのか』
などを、自分自身に問い直してみてほしいということ。

中途半端にやるくらいなら、やらないほうがいいこともある。
ただ、とりあえず楽しいならやればいいとも思う。

以上です。
かなり長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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