登校拒否(不登校)だった中学生時代の思い出

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小学生の頃の思い出 小6で学級崩壊しリア充化

俺は小5までは、地元の偏差値の高い高校へいけるくらいの学力があると、親にも期待されていた。
しかし、小6で人が変わったように暴れ捲くり、クラスも崩壊させていた。

それが理由で、中学に進学するとすぐに学校から目をつけられ、小6の時のハイテンションの反動もあり、俺は中1で学校に行かなくなった。
俺は中1の9月から卒業まで、学校にはほとんど行ってない不登校児だったということになる。

「学校に行かなきゃ」と毎日苦闘していた

俺は卒業までの間、学校に行かねば行かねばと、毎日苦闘していた。
朝になると、今日こそは行かないとと思い、なんとか自分に鞭を打って行こうとするが、結局行けないことのほうが多かった。

なんとか行けたとしても週1日か2日が限界で、しかも2時間目までで帰ってきたり、昼からだけだったりした。
最終的には、放課後に少し顔を見せれられればいいという感じだった。

行けない時は自室でネットかゲームか読書をしていた。

メンタルクリニックに行ったら社交不安障害と診断された

いよいよ耐えかね、中1の3学期あたりで初めてメンタルクリニックへ行った。
すると社交不安障害と診断され、デパケンRとかいう薬を処方された。
だが、こんなもん飲んでも意味ないと思って3日くらいですぐに服用をやめ、それ以降、クリニックにも行かなくなった。

嫌なことから逃げてひたすら布団で寝る

本当に行かないといけない大事な日に行けなかったりすると、落ち込んで、朝から布団に潜り込んで12時間くらい泥のように眠り、いい夢を見ていた。
その時の快感がものすごかった。

嫌なことから逃げてひたすら布団で寝る。
逃げることで悲惨な未来が待っていようが、今はひたすら寝るという快感。

中1のときに担任の女教師に嫌気が差して家出した思い出

小6で暴れていたせいで学校に目をつけられていたと書いたが、具体的には、5クラスの中で一番厳しいと言われている、チビの女教師が担任になったのが大きい。

そいつは、ブスでチビなので、生徒になめられないように甲高い声で怒鳴り捲くるヒス女。
他のクラスは普通に話しているのに、俺のクラスだけ昼食中でさえ私語禁止などめちゃくちゃだった。

俺はその女教師が本当に耐えられなかったので、7月に家出を決行した。
ネットで家出の知識を調べ捲くり、カバンにうまい棒やらカップ麺を詰め込み捲くり、朝の5時から、自転車で国道沿いを東へ東へ飛ばし捲くった。

10時になる頃にはもう疲れていて、ガストで休憩していたら警察から電話があり、結局午前中に家に帰った。
1週間くらい帰らないつもりで大量に食料を持っていったのに情けない。

でも家に帰って、その女教師が職員室で慌て捲くっていたことをきいた時はワロタ。

夏休み明けから学校に行かなくなった

そして俺は、9月1日の始業式から学校に行かなくなった。

すぐに担任教師と学年主任の教師が家に来て、自室のベッドで寝ているパジャマ姿の俺を説得してきた。
説得に応じない俺は、父親と教師に腕をつかまれ、パジャマ姿の状態で学校までの通学路を、通行人の目を受けながら引きずられていった。

そのエピソードは今思い出しても腹が立つ。
人扱いされていない。
思い出すと憎悪が湧き上がってくる。

町中を引きずられて学校につき、俺は保健室かどこかで話をして帰った。
それ以降、教師が毎日家に来たり電話してきたりしてきたが、学校にはほぼ行かなかった。

女教師のその後

その後、女教師に憤慨した俺と俺の親が教育委員会などに電話し捲くったことで、その女教師はその年で転任となり、転任式では泣き叫んでいたらしい。
校区がひとつ上の学校に転任したらしいが、そこでは人が変わったように優しい教師になったそうだ。

まとめ

中学の卒業式には出なかった。

今になってみると、中学の時の自分に、無理して学校なんか行こうとせず、何も気に病まず、思いっきり好きなことやってればいい、と言いたい。
学校は、自分が苦しまない範囲で行けるなら健康的だが、苦しんでまで行くなら間違っていると思う。

どうせどう転んでも、良くも悪くも同じような20代の未来しか待っていないと思うから。

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最後まで読んでくれてありがとうございました。
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